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2014年度フィリピン訪問プログラムに参加した生徒のレポート

教育/平和・共生学習/フィリピン訪問プログラム

「より良い支援の在り方とは」

63期 参加生徒

はじめに

私がこのフィリピン訪問プログラムに参加したきっかけは、友人に誘われたからであった。つまり、特別貧困といったものに強い関心を寄せていたわけではない。しかし、この七日間は時間にしたらわずかであったものの、私の価値観に大きな影響を与えてくれた。この報告書では、私がフィリピンで得た経験をもとに、良い支援とは何かについて考えていきたい。そうしてみなさんにも、少しでも貧困に興味を持っていただけたらと思う。

事前学習にて

私たちはフィリピンに行く前、実際に訪問した際の実りをより大きくするべく何か月もかけて事前学習をした。まずは皆さんに、知られざる支援の実態について知っていただきたい。

私は事前学習をする前、貧困とは昔からそこにあって、私たち先進国の人間が貧困をなくすために支援をしているものだとばかり思っていた。しかし、その実態は違う。貧困とは、私たち先進国の人間の手によって「作られた」ものだったのだ。

皆さんは「多国籍企業」という言葉を聞いたことがあるだろうか。多国籍企業とは、一つの国ではなく複数の国を舞台に活動している企業のことだ。実はこの存在が貧困を作り出し、悪化させる一つの大きな要因となっている。通常、多国籍企業はより多くの利益を得るためにより安い土地、より安い人件費で運営できる地域を求めている。その結果、現在の貧困地域が格好の的になってしまったのだ。ある日突然自分が住んでいた土地にショベルカーが侵入し、問答無用で木々を破壊していく。追い出された住民たちは当然住む場所も食料を得る手段も失ってしまう。今まで裕福とは言えずとも何不自由のない生活を送っていたというのに、多国籍企業の身勝手な開発によって貧困が作り出されていくのだ。

一見学生である私たちにはどうしようもないことだと思うかもしれないが、それは間違っている。私たちが普段食べているものが格安で手に入るのも、多国籍企業が現地の土地を格安で購入し、現地の人々を格安で雇っているからなのだ。

また、問題は国から出される支援金にもある。おそらく、支援金は無償で相手国に渡されるものだという想像をしている人もいると思うが、実はそうではない。支援金であるのに資金は「貸し出し」され、しかも利息付きというケースも珍しくないのだ。特に日本のODAは郵便貯金を原資にしており、将来国民に還元しなくてはならないため、資金を返してもらう必要がある。そのため、貸出型の支援金が多いのが現状だ。支援とは名ばかりのそういった借金のために毎年利息が積み重なり、現在に至っては、借金の返済額がその年に受け取る支援金の額を上回ってしまっているという国も多数存在する。

さらに、返してもらうことを前提とした支援に、医療や教育といった外貨を稼ぐことのできない支援は許されない。結局、支援金の使い道は外貨を稼ぐための産業などに集中し、住民の役には立たないという現状もある。

フィリピンという地に足を踏み入れて

フィリピンのような貧困地域に住む人々は、ありとあらゆる資源を先進国に搾取され、辛く苦しい日々の中でただ一日一日を消化している、これが私がフィリピンに行く前に抱いていたイメージである。しかし、実際にフィリピンという地に足を踏み入れて見たもの、それは輝かしい目をこちらに向けて歓迎してくれる、たくさんの人々の笑顔であった。確かにここにはガスも水道もなければろくなトイレもない。電気だって設置されたのはわずか1年前で、それまでは夜にやることと言ったら寝るくらいだった。私たち先進国の人間が暮らしている世界にあるような便利さは何一つとしてなかった。それなのに私たちが旅先で出会った人たちは皆毎日が楽しくて楽しくて仕方がないといった様子だったのである。私はこの状況に戸惑いを隠せなかった。

さらに、彼らは貧困下で暮らし、生活に余裕がないはずであるのに、周りの人々と自分の持ち物をシェアすることに喜びを感じていた。移動のために乗ったバンの兄ちゃんがなんだかよく分からない地元のお菓子をくれたり、子供たちが村に一つしかないボールをくれたりするのである。しかもそんな時は決まって皆嬉しそうににこにこして、これもまた、私にとって大変驚く出来事であった。

バコロドに行ったとき、Shallyという名前の十七歳の女の子に出会い、仲良くなった。黒髪で褐色の肌が綺麗な、可愛らしい女の子である。聞いてみると、Shallyは両親が離婚してしまい、今は祖父や病気の祖母と一緒に暮らしているようだった。学校に通うための十分なお金を持っていないため、常に学校では良い成績を取り、そうして得た奨学金で学校に通っている。成績は超優秀で、すでに高校は卒業しているらしい。それでも現在希望しているIT専門の大学に通うにはお金が足りないため、来年からはコールセンターで働いてお金を貯めるそうだ。そんな日本ではありえないような厳しい状況なら、将来の夢を叶えられず、途中で挫折していく人たちの方がずっと多いだろう。それでも、彼女は明るく堂々と将来はIT企業を立ち上げたいんだ、と語ってくれた。

その後、彼女も私に「あなたの将来の夢は何?」と投げかけてきたのだが、ここで私はどう答えたらいいか迷ってしまった。というのも正直これといった将来の夢はなかったからだ。彼女は恵まれない環境の中でも夢や希望を持って生きている。それなのに、私は何をやっているのだろうと情けなくなった。

また、別れ際に、彼女にどんな時に幸せだと感じるか聞いてみた。私は軽い気持ちでちょっと聞いてみただけのつもりだったが、そんな私が間違っていた。返ってきた答えは「When I have a completed family.」、つまり、お父さんもお母さんも誰一人として欠けていない家族がほしいということであった。会って一、二時間でそこまでさらけ出して話してくれたことを嬉しく思う一方、なんだかそのたった何語かに彼女の本当の想いや叫びが込められているような気がして、何も言えなくなってしまった。短い時間ではあったが、彼女とたくさん真面目な話もふざけた話もできて、本当に楽しかった。別れ際では、長年の友達と別れるくらい寂しいと感じたほどである。

ギマラスでは、Shallyよりも下の年代の小学生くらいの子たちと会った。ギマラスは、フィリピンの中でも特に自然が豊かで、空気のおいしい地域である。人間だけでなく豚などの動物も元気で、そこら辺の動物園に行くよりもずっと面白い華麗かつ機敏な動きを見せてくれた。そこでは、子供たちと一緒にドッヂボールに似たゲームや野球をして遊んだ。最初はもじもじしていた子供たちも、時間がたてば徐々に自分から話しかけてくれるようになり、まるで日本人を見ているようだった。

私は女の子八人くらいとずっと一緒にいたのだが、その女の子たちはどうやら野球に参加したくない様子。やろうよと誘っても頑なに加わろうとしなかったので理由を聞いてみると、「女子は野球なんてやりたくない。野球したいのは男子だけだよ。」とのことだった。男女で意見が食い違うという日本でも起こる現象が、野球ひとつとっても起きていて面白いと感じた。

そんな野球嫌いの女の子たちも、ドッヂボールは大好きらしい。正直私には何故ドッヂボールが良くて野球がだめなのか分からなかったが、彼女らはドッヂボールをやるとなった途端、急に盛り上がって嬉しそうにしていた。また、そういったスポーツ以外にも子供たちといろいろな話をして盛り上がった。昨年日本で大ヒットとなった「アナと雪の女王」はフィリピンでも流行っているようで、その話でも盛り上がることができた。

また、日本人がするように、やはり彼女らにも彼女ら独自のノリがあるようだ。私が子供たちと会話をしていると、急に彼女らが咳払いを始めるということがあった。何かと思って彼女らの目線の先を追ってみると、その先には皆から少し離れたところに二人きりで座り込む男の子と女の子が。どうやら彼女らは、咳払いによってその二人を冷かしていたようであった。これもまた日本人と全く変わっていなくて、違う場所に住んでいても考えることだとか人々の根底にあるものは同じなのだと強く感じた。

今紹介した地域も含め、私たちが地域を訪問した際には必ず歓迎会といったものが用意されていてそこで互いに伝統的なダンスや歌を披露しあうのだが、そこで見た光景も衝撃的だった。貧困下で暮らし自分に自信を失っているはずの子供たちが、元気に、そして堂々と歌や踊りを披露してくれるのである。明日の暮らしもどうなるか分からず、夢や希望を持つことも許されない状況で暮らしてきた人々は皆自暴自棄になり、下を向いて生きているとばかり思い込んでいた私にとって、それは信じがたい光景であった。

新しい支援の形

では、なぜ彼らは自分に自信を持ち、毎日生き生きとしているのか。そこにはvalue formationという支援が関係していた。私たちは今回、Child Fund Japanという非政府組織の協力の下、その団体の現地組織であるセンターの支援している地域を訪問したのだが、そこで必ず行われている支援がvalue formationであった。その支援では子供たちがサマーキャンプやお遊戯会など、日常生活ではなかなか体験できない経験を通して「自分はこんなことができるんだ」「自分にはこんな価値があるんだ」ということを発見するのを目的としている。人に何かを発表したり、褒めてもらったりする経験を意図的に作り出しているのだ。

そこで私には、ある疑問が浮かんだ。確かにvalue formationのおかげでこどもたちは自信を取り戻している。しかし、今のフィリピンではその自分の才能や価値を世界に発信する機会が十分用意されていないのではないだろうか。もしそうなのであれば、例えvalue formationによって子供たちが自信を持ったとしても、その先に待っているのは機会の不足という新たな失望なのではないか、と。

しかし、value formationが本当に目指しているものは、私が思っていたようなそんな表面的なものではなかった。value formationの真の目的、それは様々な経験を通して、何が得意だとか不得意だとかそういったものに関係なく、自分は無条件に愛されるべき存在、どんな自分であっても愛される価値のある存在なのだということに気付くことだったのだ。「私はいつだって神に見守られ、神に愛されている」。そういう内から発せられるエネルギーが彼らの心の支えや生きる糧となるのであった。これはどこに住む人間であっても、もちろん先進国の人間であっても絶対不可欠なものである。

このようなvalue formationの真の意義を知ったとき、もしかしたらあの時、私も彼らに無条件に愛されたのではないかと思い当たる節がたくさんあった。訪問者である私たちに溢れんばかりの笑顔を振りまき、歓迎してくれた人たち。会ってからほんの一時間程度しか経っていないというのに、自分の夢や悩みを惜しみなく打ち明けてくれた新しい友人。彼らは皆、初対面である私たちを無条件に愛し、信頼してくれた。これもきっと自分が無条件に愛されることがどんなに喜ばしいか知っていたからであろう。

彼らには物質的な豊かさはない。しかし、私たちが都会の喧騒の中でいつしか忘れてしまっていた、なくてはならない精神的な豊かさをこれでもかと言うほど持っていたのだ。そしてそのエネルギーを惜しみなく私たちに降り注ぎ、本当に大事なものに気付かせてくれたのである。

携帯を持つのは果たしていいことなのか

ここで少し話を変えて、携帯電話の話をしてみよう。私たちがフィリピンに滞在している間、ミーティングでは度々携帯電話に関する議論が繰り広げられた。

今現在フィリピンは、中国から安価な携帯電話を輸入しており、例え貧困下で暮らす人たちであっても携帯電話を使うのはそう難しくない状況にある。確かにこれは、フィリピンが少しでも貧困脱出への道を進んでいるという証拠なのかもしれない。しかし、先ほども述べたように、私がフィリピンで見た輝かしい笑顔、それがもし貧困下で暮らすからこそ生まれたものであるのならば、私はフィリピンの人々に携帯電話を使ってほしくない、これが正直な意見だった。彼らは私たちにはない良さをたくさん持っている。その良さをずっと持ち続けてほしいと感じた。

また、私たちにはもう一つ懸念していることがあった。それは、携帯電話が悪用されるのではないか、ということだ。携帯電話によってネットワークへのアクセスが容易になった分、犯罪に巻き込まれたり、逆に自分が加害者になったりする機会も格段に増えるだろう。センターのスタッフの方に伺ったところ、そういったデメリットから自分を守るためのセミナーを行っているとのことだったが、支援を受けていない子供たちはもちろんセミナーを受けられない。そうなれば携帯電話を持たないほうが本人たちのためにもいいのではないだろうか、こう考えた。

私たちには私たちの良さが、彼らには彼らの良さが

先ほども述べたように、私がフィリピンにいる間、彼らの人間性の高さに驚かされることが多々あった。知っての通り私たちは先進国に生まれ先進国に暮らし、便利な暮らしはいつも手の中にある。もちろんそれも十分世界に誇れる長所である。一方、フィリピンに便利な暮らしはない。ただ、ここには私たちにはない精神的豊かさがあった。私たちはよく物質的なものに重きを置きがちになっている。しかし、みなさんも精神面の支えが必要であることは日常生活で実感しているであろう。つまり、互いにそれぞれの良さがあり、どちらが良い悪いといったことは一切ないのだ。それぞれに長所と短所があるということを知り、互いを尊敬しあうこと、これが貧困をなくすうえで重要なのである。

支援をするうえで大切なこと

ここまで私は貧困下で生きる人々の心の豊かさに焦点を当ててきた。この精神的視点は私たちが支援をするうえでも重要な要素となる。ここで質問だが、よりよい支援のために必要となってくるのは何であろうか。私がこのフィリピン訪問プログラムで感じたのは、支援する側の想いの重要性であった。世界には数えきれないほどの支援団体があり、そのどれもが重要な役割を果たしている。

しかし、支援する側はどういう心持ちで支援しているのだろうか。確かに、支援地域に不足しているものを送るのは重要である。しかし、必要なのは「物」だけではなく支援する側の相手を想う気持ちである。決して「私は支援してあげているんだ」と上からものをいうのではなく、「彼らの力になりたい」と心の底から思うこと、これがvalue formationにもあるような「私は誰かに愛されている」という感覚に繋がるのだ。

想いというものは形としては見えなくても彼らにとって大きな力となる。私がセンターを訪問したときに、私には想像もつかなかったほどに彼らが歓迎し、おもてなししてくれたのも「この人たちが私を愛し、応援してくれている」という喜びが現れたからなのかもしれない。

先入観にとらわれるのはもうやめよう

私たちはよく、彼らが貧困下で暮らしているという事実だけをもとに彼らをああだこうだと決めつけてしまうことがある。例えそこに悪意がなくてもだ。例えば「彼らは自分たちで生きていく力がないから手助けしてあげよう」といった善意から始まる先入観でさえも、間違った支援を生み出すことがある。実際、世界はたくさんの見当違いな支援で溢れかえっているのだ。

私は決して先入観を持つという行為を全否定するつもりはない。先入観を消し去る最も効果的な方法は、言うまでもなく実際に現地へ行って現地の人々と触れ合うことである。しかし、誰もが簡単にそういった機会を得られるわけではないからだ。そうなるとどうしてもインターネットやテレビニュースなど、自分の目で直接、ではなく何かを媒介した情報に頼りがちになってしまう。そしてその間接的な情報にとらわれ、知らず知らずのうちに間違った理解をし、相手の本当に望んでいることが掴めないということもあるのだ。これは、本人にはどうしても取り除きがたい壁である。では、その壁を目の前にして、私たちはどうしたらいいのであろうか。

私は、「自分には先入観があると認めること」が大切になってくると考えている。私たちには壁を取り除くことができない。それならば、自分は常に何かを通して物事を見ているということを自覚し、自分が彼らに対して抱いているイメージや想いには何か現実とのズレがあるのではないかと自分に問い続けること。この行為が私たちと彼らの間に立ちはだかる壁を少しでも薄く、そして低くしてくれるのではないだろうか。もちろんこれは私のような実際現地に行った者にも言えることである。私たちは彼らとともに寝食を共にしたわけではないのだから、彼らの全てを把握しているわけではない。そのため私も自分自身に問いかけ、二者の間に存在するズレをさらに修正していく必要がある。

そうなってくると、先ほど述べた携帯電話に関する話のうち、彼らがきちんと使えるかという心配は見当違いだったことが分かる。携帯電話を持つことによる問題は、何も彼らのみが抱える問題ではない。私たちだって同様の問題を抱えているではないか。私たちにだって毎年携帯電話が原因で犯罪に巻き込まれる人はたくさんいる。きっとこれも、私たちが「彼らは貧しいから」と知らず知らずのうちに決めつけていた証拠であろう。

本当の支援とは

私はこのフィリピン訪問プログラムで、「彼らもまた、私たちと同じ人間なのだ」ということを強く感じた。最初はすごくシャイなのに、馴れると向こうから話しかけてくれる子供たち。カップルを冷やかす仲良し女の子グループ。まるで日本人を見ているようで、例え住んでいる場所や環境が違うといえど皆考えていることや人々の根底にあるものは同じなのだと思った。もしかしたら「そんなのは当たり前だ」と思う人もいるかもしれない。しかし、その事実を言葉としてではなく感覚として得ることができたのは、私にとってとても大きな収穫だった。

そこで私は、彼らの持つ「権利」について考えてみた。彼らも私たちも皆同じ人間であるということは、一人一人が持つ権利の数も同じはずである。それなのに、先進国側の利益ばかり優先され、現地の人々の生活は二の次だなんておかしな話ではないだろうか。ましてや土地開発や貧困削減における主役は、現地の人々である。もしかしたら彼らは物質的な豊かさなど求めていないかもしれない。彼らの思う幸せと私たちの思う幸せが必ずしも同じとは限らない。もしかしたら彼らの描く理想の未来は、私たちのそれとはまったく異なるかもしれない。これはあくまで私の予想であるから本当のところがどうであるかはわからないが、だからこそ、もっと綿密に彼らの意見、要望に耳を傾ける必要があるだろう。

また、携帯電話を持つことによって心が汚される彼らを見たくない、という意見があったが、今となってはその想いがいかに自分勝手であったか分かるだろう。もう一度言うが、支援の主役は現地の人である。決して私たち支援する側の人間ではない。私たちが彼らに対してこうなってほしいああなってほしいといくら思おうが、最後に決断するのは彼らなのだ。もちろん支援する側の想いは彼らが生き生きとした人生を送るうえで重要なファクターとなるわけであるから、「想いを持つこと=悪」というわけではない。ただその想いがある一定のラインを超えてしまったとき、それは彼らにとって障害でしかなくなってしまうということを念頭に置かなければいけないのである。

最後に

これまでにフィリピンの魅力についてもたくさん伝えてきた。しかし、確かにそこに貧困はある。皆さんにはこれを忘れないでいてほしい。彼らは決して笑顔を絶やさない、もしかしてもうそこに貧困という二文字は存在しないかのように。ただ事実として、毎年防げるはずの病気で亡くなる人がごまんといる。もしかしたら私がフィリピンで出会った“ある人”がもうこの世にいないかもしれない。ありえないようだが、その可能性は十分にあるのである。

より良い支援のために私たちがすべきこと、それは今までの自分の価値観を捨て、現地の人々と対等な関係を築き上げること。文字に起こすと簡単なように聞こえるかもしれないが、これが実際に行動に移そうとなると難しい。まずはそれが難しいということを認めたうえで、更なる改善のために全力を尽くす。これが誰にでもできる貧困改善への第一歩なのだ。また、物やお金を送る従来のタイプだけが支援ではない。彼らのことを想い、彼らの心を支えていくこと。これも彼らに生きる希望を与える立派な支援となるのである。彼らも私たちも皆、同じ地球に生きる人間である。それを絶対に忘れず、同じ目標に向けて共に歩き、時には共に悩んだり共に笑ったりして、一歩一歩確実に進んでいきたい。

(63期 参加生徒)

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