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教育/キリスト教教育

宗教主任からのメッセージ

宗教主任より

主なる神に見出され、取り戻されるとき

青山学院宗教主任 相良昌彦

宗教主任 相良昌彦

青山学院は主イエス・キリストの愛、主への愛によって建てられた学校です。その高等部で過ごす3年間の日々はかけがえのない大切なひと時です。皆さんは、初めて聖書を手にする人も、毎日の礼拝への参与、聖書の御言葉との出会い、讃美や祈りを共にする経験を通して、主イエス・キリストへの出会いへと招かれています。

新約聖書のルカによる福音書にある主イエスの御言葉を紹介いたしましょう。

「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火つけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」

新約聖書のルカによる福音書15:8-10にある主イエスのたとえ話の一節です。

ここには無心に、無くした銀貨を探し求める女性の姿が描かれています。この人は、明かりを灯し、掃き掃除までして、銀貨が見つかるまであきらめずに探し続けるのです。決して探すことを止めようとはしない真剣な姿が描かれています。失われてしまい、どこかに落ちたままのコインは、言葉を発すること、自ら存在を教えてくれることもありません。ただ見出そうとの想いをもって探し続けるこの女性が、遂には銀貨を探し当て、大きな喜びがあったことが、このたとえ話の結びになっています。

この銀貨に、忙しく日々を過ごす私たち、そしてこの私自身の姿を見る思いがします。誰しもが課題や重荷といえるものを負って生活しています。その日々の中で疲れを覚え、混乱し、自分を見失い、時には家族や友人、自分すら傷つけてしまうこともしてしまうのがこの私たちかもしれません。痛みや悲しみの経験が、その苦しさが、私たちの心を閉ざして、心から生まれようとする言葉をも奪ってしまうこともあるでしょう。何を求めているのかということすら、わからなくなってしまうこともあるのではないでしょうか。聖書には、この私たちは神の御姿に造られ、祝福をもって命を与えられたことが記されています。それが主なる神の愛であったからです。私たちは、日常のどこかで、主なる神から離れてしまっていることを通して、本来の人としての在り方、生き方を失っているのではないでしょうか。その私たちを、あきらめることなく、切なる想いをもって捜し求めてくださる主なる神がおられることを、主イエスは教えてくださっています。

高等部に来られる皆さんお一人お一人は、主なる神に見出され、取り戻されるとき、真に自分を取戻し、自分を愛し、さらには、すべての他者を、共に生きていく存在としての隣人として受け止め、愛することが出来るという幸いをこれから味わおうとしているのです。

青山学院の教育は、キリスト教信仰にもとづく教育をめざし、神の前に真実に生き、真理を謙虚に追求し、愛と奉仕の精神をもって、すべての人と社会とに対する責任を進んで果たす人間の形成を目的とする、とうたわれています。そのための高等部のキリスト教教育は、毎日守られる礼拝と、聖書の授業を中心として皆さんをお迎えしています。教会暦に従って、イースター(主の復活)、ペンテコステ(聖霊降臨)、そしてクリスマス(主の降誕)を祝う礼拝の他、様々なゲストを通して、人としての生き方、クリスチャンとして生かされる幸いを味わう礼拝が用意されています。基本的には土曜日を休みとする週5日制を採用していることも、日曜日に生徒、教職員が教会での主日礼拝守るための配慮です。学校の周囲の諸教会との関係の中で、皆さんが安心して教会生活を守ることが出来るよう努めています。

この私も、中等部、高等部、大学、大学院にて青山学院の養いを受けた同窓生の一人です。感謝と喜びをもって母校へと招かれました。日々の礼拝の時、聖書の授業に赴く時、皆さん、教職員と共に過ごすその時、主の祝福を覚えます。青山学院は幼稚園、初等部、中等部、高等部、大学、大学院、そして専門職大学院のどこを、いつ訪れても同じキリストの香りがする学校です。そのための一貫のキリスト教教育を通して園児、児童、生徒、学生を迎え、主イエスの御言葉と愛を伝えています。この歩みの中から、確かに主イエス・キリストに倣い、主の愛を運ぶ一人一人が卒業生として送り出されていきますよう祈っています。高等部の毎日を皆さんとご一緒に、主なる神に与えられている主の日としてお祝いいたしましょう。

宗教主任 相良昌彦