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PS礼拝「狭き門」
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狭き門
狭き門から入りなさい。
滅びに通じるは広く、
その道も広々としていて、
そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、
その道も細いことか。
それを見いだす者は少ない。 - ルカによる福音書 13章24節 -
中間試験もつい先程終了、或いはあと一科目を残すのみとなりました。皆さん、この試験を振り返ってみて、いかがでしたでしょうか。かなり良い手応えを感じている人、何とかこの場をしのいだ人、可もなく不可もなくの人、或いはひょっとしたら途中で力尽きてしまった人もあるかも知れません。今ざっと振り返ってみた時、皆さんは一体どれ位この試験に対して真剣に謙虚に、
そして貪欲に臨んだでしょうか・・・。
しかし本来私たちが勉強するのは、知識を身につけるため、或いは考える力を養うためであって、試験というのはその達成度を測るための材料にすぎないのです。内部進学に成績が大きく関わるこの学校の場合、どうしてもそのことを忘れて、目の前に数値として表れる点数や評価に心奪われてしまいがちですが、本来のあり方を100% 忘れ去ってただ目の前の数値だけにこだわるとしたら、その勉強は本当に苦痛に満ちた本末転倒のものとなってしまうのではないでしょうか。そして本来試験のためではなく様々な力をつけるために勉強するのであれば当然勉強というものは日頃からコツコツと積み重ねていき真に身につけることが大切と思います。
しかし何故、日頃からコツコツと勉強することが難しいのでしょうか。一つには、勉強より楽しいことがあり、その誘惑に負けてしまうというのがあると思います。授業中、先生のお話よりもとなりの席の人とのおしゃべりに夢中になってしまう人、睡眠の誘惑に負けてしまう人、或いは家でついつい目の前のゲーム機に誘われてしまう人、何となくはじめたメールのやりとりに時間を費やしてしまう人など、あとになってみると一分一秒が惜しいのに、あの時何とムダに沢山の時間を費やしたことか・・・と後悔したことのある人も少なくないのではないでしょうか。
" 日頃からコツコツ" が苦手な人は、同じ苦労ならちょっとずつの苦労を毎日積み重ねるより、毎日楽に過ごしてある一時だけ一気に大きな苦労をする方がいいという、例えていえば、1を10回足すのと0を8回足して5を2回足すのは同じ10、そして後者の計算法の方が良い方法だ!というような計算式が頭の中に出来上がってしまっているのかも知れません。
苦労だけを計算したらそうなのかもしれません。しかし、その結果結ぶ実の大きさ、見た目、味、栄養価はどれをとっても前者の方がはるかにすばらしいと思います。さらに年月がたってたとえ具体的な内容は忘れてしまったとしても、物事の考え方考える力何かに取り組むときの姿勢、本質のとらえ方、どうすれば自分の気持ちを正確に人に伝え、また人の気持ちを理解することができるか・・・などなどの「生きる力」の差となって表れてくるのだと思います。
さて、前置きが長くなりましたが、先程の聖書の言葉を" コツコツ型勉強法" と" 直前型勉強法" に当てはめてみるとどうなるでしょうか。「狭い門から入りなさい」は「毎日コツコツ勉強しなさい」にあたります。「滅びに通じる門は広く、その道も広々としていて、そこから入る者が多い」は「身につかない直前形勉強法は一見たやすく、うまくやれば試験にも失敗せず、その方法をとる人が多い」です。そして、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」は「身につくコツコツ型勉強法は一見やりにくく達成困難に見え、その方法をとる人は少ない」となります。
しかし、もう一度聖書をよく読んでみて下さい。まず始めに「狭い門から入りなさい」とあります。「入りなさい」というからには入れるくらいの広さはあるはずで、いっぺんに何人何十人と通れるような広さではないかもしれませんが、人ひとり通るには充分な広さと考えられます。ここには、人数制限があるとは書いてありません。世の中で一般的に" 狭き門"というと入試の難関のことを指しますが、これは狭くて通りにくく、入れる人数の決まっている門を意味しますから、聖書の言う「狭い門」とは根本的に意味が違うと言えます。それはさておき、聖書に戻ると、続いて「滅びに通じる門は広く、その道も広々としていて、そこから入る者が多い」とあります。広い門はきっと大きく立派で、誰の目にもどこにあるかよくわかり、見つけやすい門だと考えられます。道も広くそこから入る人が多い、ということは、人の流れを見ても見つけやすいし、あまり自分の意思とか決意とかがなくてもその流れについて行けば自然と入れてしまう門だと考えられます。そしてその門を入って行き着く先は「滅び」なのです。それに対し、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」とあるように、命の門というのは狭く道も細いので、どこにあるのかわかりづらいし、見つけたとしても遠くから見ただけでは通れないかもしれないと思う程狭いかもしれません。そして「それを見いだす者は少ない」とあるので、おそらく通っている人も少なく、従って広い門のように誰かの後をついて行けば自然と通れるというものではなく、その門をあえて選びその門を通ろうという自発的な意思や決意が必要と考えられます。
しかし、最初に言ったように「狭い門」は入れる門なのです。その存在に気づき、入ろうとさえすれば、確実に入れる門なのです。そしてその門を入った先にあるのは「命」です。先程の勉強法の例で言えば「広い門から至る滅び」とは殆ど身につかなかった勉強で、「狭い門から至る命」とは身についた様々な生きる力となると思います。
さて、ここで聖書が言う「滅び」とか「命」とはどんなことを意味するのでしょうか。人生をその人中心に考えた場合には、「命」は成功「滅び」は失敗と考えられるかもしれません。一般的には、高収入の仕事に就き、その仕事で成功して出世し、私生活も充実していて、健康にも恵まれ、やり残したことはないという人生が成功した人生かもしれません。お金で苦労したり、トラブルに巻き込まれたり、不自由な生活を送った人の人生は失敗と考えるかもしれません。
しかし、聖書の言う「滅び」或いは「命」はちょっと違います。月曜日の礼拝で神永先生が" 神様は必要なものすべてを与えて下さるけれど、それは、「私が必要なものすべて」ではなく「私に必要と神様が考えるものすべて」なのです" とおっしゃっていたように、聖書は私たちの人生を私たち中心にはとらえていません。そういう目で読んでしまうと正しい理解が出来ず全く意味のわからないおかしな言葉だらけの本になってしまいます。聖書のいう「命」とは、一言で言えば「神」そして「イエス・キリスト」だと思います。北校舎の玄関から2階へ上がる階段の踊り場の壁に「way, truth, life」というイエス様の言葉が書いてあるのをご存知でしょうか。「私は道であり、真理であり、命である」というその言葉にあるように、ヨハネによる福音書14章6節でイエス様は「私」という道を通らないと父なる神のもとに行くことはできない。」とおっしゃっています。そこには「イエス様が神様のところに私たちの場所を用意して下さる」と書いてあります。それはイエス様が身代わりとなって十字架にかかり、私たちの罪を許してくださることを通して、私たちを神様のもとに送ってくださるということを意味しています。だから、そのことを信じてイエス様に従って行けばよいということです。しかしそのことに気付きその門を通る人は少ない、ということなのではないでしょうか。
狭い門は一人でしかくぐれず、細い道は一人でしか歩けません。しかし、その道が歩きにくい困難な道であるとき、羊飼いは羊を一頭ずつ抱いて歩く、と言います。私たちも命の門を選び、一人出歩く決心をした時、時にはイエス様に抱かれながら神様に向かって歩んでいくことができるのだと思います。そして神様に造られこの世に送り出された私たちが最後にまた神様の元へ帰る、それは一番自然なことであり私たちの歩むべき道なのだ、と私は信じています。





