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2009年度入学式 部長告辞

2009年度入学式 部長告辞

2009年度入学式 部長告辞 大村修文

青山学院高等部に60期生として入学された1年生の皆さん、おめでとうございます。ご列席の保護者ご家族の皆様方にも、お子様のご成長を、心よりお祝い申し上げます。

暖冬といわれながらも、3月下旬に厳しい寒さが訪れ、入学式に桜が咲いているという幸運に巡り合いました。
青山キャンパスは桜がとても美しく、桜の花と入学式という取り合わせは素晴らしいので、その期待が叶ってうれしく思います。
青空に映える桜の花の美しさ、そして強風に耐える姿は、青春を想像させます。
高校時代はまさに青春そのもの、皆さんの貴重な青春を、青山学院高等部で充実させて送っていただきたいと願っています。
しかし、青春とは決してただ楽しい、というだけのものではありません。

青春とは、人生の意味を問い、自分の進路に悩み、勉強やスポーツの壁につき当たって苦しみ、友人関係や異性との関係に悩み、親や教師との軋轢を繰り返し、そうした厳しさの中で自分を鍛え成長させていく、そのようなものです。
私たち大人は、あるときは向かい風となって皆さんの前に立ちはだかり、あるときはそっと後ろから支える追い風の役割を果たします。
中学校の義務教育の段階から一歩進んで、高等学校のより高度な勉強に取り組む皆さん。
高校は今ほとんど義務教育化しているといわれますが、高校の授業はかなり高度で、しっかり勉強しないとついて行かれなくなることも少なくありません。
幼稚園から大学院まであるこの青山学院においては、どの教育段階にもそれぞれ固有の大切さがありますが、高校時代は、将来の進路を見定め切り拓いて行く分岐点という重要な意味を持っています。
ここでどのような方向に向かおうとするかによって、自分の将来が変わってくるからです。

進路を真剣に考え,自分の希望と適性を見きわめるために、どの教科にも真剣に取り組むことによって、自分は何に興味があるのか、何に向いているかを見定めつつ、自分の進みたい方向に行くための力をしっかりつけてほしいと思います。
同時に、高校の勉強が大学への手段だけに終わってはならないことも言うまでもなく、高等部で学ぶ真理に謙虚に耳を傾け、自分を高め深めていただきたいと思います。

2009年度入学式 部長告辞

どの教科の学習でも、授業で学ぶ事柄には、それぞれの面白さ、価値があるはずです。それらは知らず知らずに根付いて、皆さんの知性・感性・体力を豊かにしていくのです。また高等部では、青山学院大学・女子短期大学の先生方による学問入門講座という、学問の面白さを皆さんに気付いてもらう独自のプログラムもあります。皆さんが自分を最大限に生かして伸ばす・自己実現を支えるために、青山学院として協力体制を取っています。
さて、2月23日付けの朝日新聞に、「63歳、初めての入試・もっと学びたくて」という記事が出ていたのをお読みになった方もあるかもしれません。主人公は藤崎翠子さん。敗戦直前に生まれ、半年ほどして母親が異変に気付き、3歳のときに脳性まひと診断された、江戸川区立中学の夜間学級の生徒です。障害が重く、義務教育は免除され、学校には一度も行かず、友達はテレビだけの生活。それでも夢があり、20歳の頃、障害者がアメリカの会社で生き生きと働く様子がテレビで紹介され、ここで働いてみたい、と思ってNHKの番組で英語の勉強を始めた、といいます。障害者が働く施設で働いているとき、同じように重い障害を持つ男性と結婚。子どものオムツを替えるにも介助者に頼まねばならなかったけれど、子どもが健やかに育ち、学びたい、という思いが残ったときに、夜間中学の存在を知り、61歳で入学。行きかえりには大学生や主婦が学校の臨時職員として車椅子を押してくれたといいます。その藤崎さんが高校入試に挑戦されたわけで、おそらく今頃どこかの高校の入学式に、新入生として出ておられることでしょう。この方は私とほぼ同年齢です。私にはもはや高校の勉強を全てやり直す気力はありませんが、藤崎さんの学ぶ意欲の素晴らしさに強く打たれました。

2009年度入学式 部長告辞

また、今年青山学院大学で、全盲の大学院生が博士号をとりました。国際政治経済学研究科の伊藤丈人さん、彼は皆さんと同じ年の15歳で完全に失明。全く目が見えないという状態がどんなに大変なことか、想像がつくでしょうか。伊藤さんは苦労して勉強し、青山学院大学に入学してからは、板書を読み上げてもらったり、大学院でも論文の清書などを友人に手伝ってもらい、それに大学が手当てを出して、彼の学ぶ意欲を支えたのです。
学ぶということには、内側から出る関心が何より大切です。古代ギリシアの植民地でエーゲ海に面した今のトルコにあるミレトスという港町に、紀元前6世紀ごろ、タレースという人がいました。彼は哲学の祖といわれる人で、夜道で空の星を眺めつつ、一体星は何からできているんだろう、どういう動きをしているんだろう、と夢中になって考えながら歩いていたら、どぶに落ちてしまったというのです。傍で明かりを持って歩いていた奴隷が「ご主人様は沢山のことを知っている偉い学者といわれてますが、足元のどぶにも気づかないようでは、そのお勉強は大して役に立ちませんね」と冷やかしたのです。
しかしまさにタレースのこの態度こそ、探求する者の姿勢を示しています。タレースは万物は何からできているかを考え抜き、万物の源は水だ、といったのです。今考えると幼稚な結論に見えるかもしれません。しかし彼は、港町ミレトスで海の水が蒸発し雨となって全てを潤すこと、あらゆる生物は水がなければ生きられないことに気づいたのでしょう。
また同じミレトスのアナクシマンドロスという人は、万物の源はこれこれと具体的に説明できないものつまり無限定なものだと考え、さらにギリシア各地のいろいろな学者が、万物の源は空気だとか火だとか、いろいろ考えました。三平方の定理で有名なピュタゴラスは数学者らしく、万物の源は数だといい、さらに後のデモクリトスという人は、物質を小さく分けていってもうこれ以上分けられないもの、アトムつまり原子だといいました。

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そんなことを考えているのはずいぶん暇人だと思うかもしれません。しかし、学校school、学者scholarという英語の語源は、ギリシア語のスコレー・暇という言葉に遡ります。皆さんも今はまだ働かないですみ、ある意味で暇があるからこそ学校に来て勉強できるという面があるのです。タレースらを自然哲学者といいますが、その思索はずっとのち近代になって自然科学として花開き、万物は原子からできている、そして原子核さらには素粒子の存在など、といった高度な学問に発達していったのです。
ところでこのような科学的知識は、世界はどのような仕組みになっているかということを明らかにすることはできても、なぜ世界は存在するのかとか、他の人とは異なる自分の存在する意義は何か、といった問いには答えてくれません。それに答えようとするのが宗教なのです。青山学院の教育はキリスト教の信仰に基づく、と教育方針に謳っていますが、それは決して科学的知識や科学的思考方法を軽んずる意味ではなく、私たちがどう生きていくか、その方向性を示すためにもう一つ大切なものがある、という意味なのです。
聖書は、人間とは神様がご自分にかたどって造った特別な存在である、と記しています。ここから一人一人の人間の尊厳、かけがえのない価値ということが出てきます。一方でまた聖書は、人間の弱さも徹底的に指摘していますが、この両面性を持ちつつ、最終的に人間が神から愛され赦されている、というのがキリスト教のメッセージの中心です。そしてそこから、私たちは孤立した人間ではなく、他者と共に生きる存在だということも出てきます。高等部において皆さんが自分の夢を見出し、それを叶えるために精一杯頑張ると同時に、青山学院のスクールモットーである「地の塩、世の光」として、他の人と共に生きることも学んでほしいと思います。建築が続いてご迷惑をおかけしますが、充実した高等部生活だったと全員が思えるような日々をすごしていただきたいと心から祈って、私の告辞といたします。