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2013年度生徒会活動報告(1)

生活/生徒会活動

2013年度生徒会が取り組んできた活動を、ご報告します。

生徒会長からの報告

伝統の重さ
生徒会長 久保 直生

僕が生徒会長になって一番変えたかった行事、それがこのバレーボール大会であった。文化祭と並ぶ一大行事。体育祭のない高等部にとっては唯一の体育行事である。
毎年、この日に向けて各クラスの練習は日に日に激しさを増し、大会当日の盛り上がりは凄まじいものである。だがその一方でトーナメント制のため、初戦で強いチームと当たってしまうと涙を流す間もなく、そのクラスのバレーボール大会は幕を閉じる。早いクラスは9時半ころには終わってしまうなんてこともあったようだ。また、負けたクラスはお昼を過ぎれば帰って良いことになっていて、優勝したクラスも知らぬまま家に帰ってしまうのであった。大会までの努力は実を結ぶことなく、虚無感だけが残ってしまう・・・そんな今までの形式をどうにか変えたくて、考えたのが今回の「予選リーグ&決勝トーナメント制」であった。この形式にすると、1クラス4試合、全クラスお昼過ぎまで試合ができる。そして最後の試合までどのクラスが決勝リーグに進めるのか分からないというドキドキ感があった。

さて、サラッと今年の大会形式を変えた経緯を書いてみたものの、この大会形式の変更は僕達、三者協議会13人にとって地獄の幕開けであったのだ。
冬休み、このような僕達の考え方をバレーボール大会の担当である高橋先生に伝えたところ、意外にも前向きな答えが返ってきた。とりあえず企画書を提出しろとのことであったので、三者メンバー総動員で企画書を作り1月中になんとか完成することができた。自分達の考えたこの形式がこの学校の長いバレーボール大会の歴史を変えるということに対して、この時はまだ希望で満ち溢れていたからであろう。
だがそれはすぐ砕かれることになる。最初の企画書返却。僕達が見たものは訂正で真っ赤に染まった僕達の企画書であった。形式のことからヘッダーの付け方まですべてがNG。満ち溢れた希望まで訂正の赤ペンで塗りつぶされてしまったような気がした。

そこから何度も企画書を出しては直され、出しては直される、そんな毎日を繰り返しただろう。春休みはほぼ毎日生徒会室にこもり、1クラスの空き時間が95分以内になるように、最善の試合の組み合わせをホワイトボードの端から端まで書いた。15分で試合が進められるようなルール作りをひたすら考えた。長い高等部の歴史の中で、ほとんど手が付けられていなかったバレーボール大会の形式を変えるということに日に日にプレッシャーを感じるようになってきているのが自分でもわかった。そんな中、友人からかけられる声は、励ましの声というより戸惑いの声や不満の声であった。いや、実際追い詰められていた僕がそういう声しか聞き取れていなかったのかもしれない。ただそれはますます僕達を追い込んだ。

大会当日である6月1日まで、ほんとうに長かった。
当日、副審とラインズマンの配置や、全コート試合ができるかどうかの確認などで時間通り試合を進行できず、結果的に予選ブロック敗退クラスのために行うつもりであったエキシビションをつぶさざるを得なかったこと。このことは本当に悔しかった。もともといくら時間が押していても決勝開始時刻にはエキシビションは打ち切るということは伝えてあった。でも40分遅れで本当に試合を中止にすると決断せざるを得なかった時、自分でわかっていながら生徒会顧問である保屋野先生に本気で懇願した。「どんな形でもできないか」と。そして初めて先生から本気で怒られた。自分で決めたルール。「決勝時刻に打ち切り」ということ。それなのに、それなのに。「なんでできないんですか?最終下校までには終わりますよ!」とずっと抗議した。泣きながら抗議した。なんで涙が出てくるかは自分でもわかっていた。だって自分で決めたルールだったから。もし仮に先生が「いいよ」と言ってくれても、もしそれで決勝開始時刻を遅らせたら、自分達で作った大会を壊すことになる。だから保屋野先生は本気で怒ってくださった。この決断によりその後のプログラムは悔しいほどスムーズに運んだ。

未だかつてない大勢の声援の中、白熱した決勝戦も終わり、閉会式が始まった。後日に行なっていた今までの閉会式と異なり「当日に行う」。今回の僕達のやりたかったことの一つであった。会長選挙に当選した時から、この閉会式を笑顔で締めくくる自分の姿を妄想していたこともあった。ウケるかウケないかは別にして、気の利いたギャグでもかましてみようか。そんなことも考えていた。だがそんな僕の妄想もエキシビションと共に消えていってしまった気がした。表彰が終わり、いよいよ最後のあいさつに差し掛かる。重い足取りで全校生徒の前に向かった。しかし、僕の目に写ったのは、色とりどりのクラスTシャツで覆われたグラウンドで、トロフィーを抱えているクラスかどうかにかかわらず、笑顔で前を向く全校生徒の顔だった。そこから自分が何を話したのか、正直なところ今はあまり覚えていない。しかし、口を出る言葉は感謝ばかりだったこと、そしてなによりもたくさんの笑顔が本当に嬉しかったこと。それは僕の一生忘れられない思い出である。

バレーボール大会が終わるまで本当に辛かった。投げ出したくなったこともあった。いっそ前年度の形式に戻してしまおうかと思ってしまったこともある。正直、僕一人だったら間違えなく途中で折れていただろう。1本の矢では折れてしまっても3本結束すれば折れないと例えた毛利元就のように、僕には12人の三者のメンバー、そして途中からは正副運営委員長、男女バレー部、放送部。多くの仲間がいたことは新しい形式で大会を終えられた理由にほかならない。数えきれないほど助けられた。まず実行委員に感謝したい。そして、この大きな形式の変更に最初から付き合ってくださり、凄まじい量の赤ペンで今回のバレーボール大会まで導いてくださった先生方、前年度とは全く異なった形式にも関わらず大きな混乱もなく最後まで試合を進めてくださった全校生徒の協力に感謝しつくせない。終わった後、たくさんの先生、生徒から「今年の形式で良かった」、「変えてくれてありがとう」という言葉を頂いた。その度、エキシビションをできなかったことに申し訳ない気持ちも感じたが、それ以上にここまでやってきて本当に良かったと思った。なによりそういう言葉が嬉しくて仕方なかった。来年度どのような形でバレーボール大会が引き継がれるが分からないが、根底にある「全校生徒が楽しめるような大会」を目指して、バレーボール大会実行委員は準備を進めていくことに間違いはない。

生徒副会長からの報告

震災を他人事にしてはならない
生徒会副会長 北村 功太

帰りのバスの窓から町並みが段々と都会に近づくのを見ながら思った。都会に近づけば近づくほど震災を忘れているのではないかと。そして私達はこの震災を、これからの未来のために無駄にしてはいけないと。
8月8日と9日に高等部生徒会代表者は岩手県立宮古高校生徒会執行部と交流会を行った。バスを降りた時に感じた街の第一印象はごく普通の港町だった。辺りを見回しても震災の傷跡は見受けられず、順調に復興が進んでいるように見えた。
その後、宮古高校生徒会と合流し復興プロジェクト「かけあしの会」のボランティア活動に共同参加した。この「かけあしの会」とは、宮古市を中心に震災によって職を失ってしまった仮設住宅の方々に仕事を提供する活動をしている団体である。
私達が今回参加したのは、大きなアワビの貝殻を洗浄し様々な形に加工した後、目の粗いヤスリから順に磨いていき七色に輝くアワビ細工に変えていくというものだった。私達はヤスリで磨く工程のみ参加させていただいた。すべて手作業で行うため集中力と根気のいる作業だったが、出来上がった美しい作品を見て、このアワビ細工が被災地復興を支える一つだと思うと、自然と2つ目の貝に手が伸びていた。同じテーブルで作業をすることになった宮古高校の生徒とは色々な話をした。クラブ活動のことや制服、頭髪の規定など、高等部では考えられないものもたくさんあり非常に興味深かった。
ちなみに、この活動に参加した青学男子生徒は全員、宮古高校の頭髪規定に違反しており髪を切らなければいけないらしい。話が盛り上がり、話題が夏休みの予定に変わったときだった。「あれ(震災)からもう海行ってないな」と一人の生徒がつぶやいた。するとかけあしの会の女性スタッフの方も「なんか行けないわよね」と返した。震災は街を奪っただけでなく、人の心をも傷つけたのである。目と鼻の先にある身近な海、漁業によって宮古を支える海、その海に足を運べなくなるほどに。
私はニュースで震災の惨状を知り、死傷者の合計を知り、津波の映像を見ることで悲惨さを共有した気になっていたのだ。だからバスを降りた時に街の外見だけを見て復興が順調などと簡単に思ってしまったのである。もちろん体験をしていない私が当時の話を聞くだけですべてを理解することはできないことはわかっていたし、話をさせるということは当時を思い出させてしまうこともわかっていた。しかし私達は同じ日本人として、これからの未来を共に背負う高校生として知るべきだと考え、それまでなんとなくお互い避けてきた震災について尋ね始めた。家に津波が押し寄せ船が家の中にあったことを話した人、高地の中学で卒業式の準備中に被災し、高台に避難してきた人達に備蓄毛布を渡し続け自分たちは寒い教室で固まっていたことを話した人もいた。聞いているだけで辛かった。ただ彼らは同情など求めていなかった。近所の人と協力して家の泥をかき出したこと、唯一街で残ったスーパーに震災翌日からボランティアでシフトに入り、清掃や、食料を確保しようとする大勢の人達の整備を行った宮古高校の先輩方の話等、復興の話もたくさん話してくれて、彼らが前を向いていることを知った。
出来上がったアワビ細工をストラップにしてお互いの文化祭で販売することを決めて、その日は宿舎に戻った。

翌日私達は少し早起きをして、宮古市内散策をした。すると各所に残る震災の影響を見つけることができた。橋が落ちてしまったため使われなくなった踏切、津波によって曲がった柵など、車で移動をしていると気づけないものを発見できた。そして堤防沿いに並ぶたくさんの漁船からは、たくさんのものを奪われた海に生活のために漁にいく、そんな前向きな宮古市を見たような気がした。
その後また宮古高校生徒会と合流し午前中にスポーツ交流を行った。バレーボールやバスケットボール、ドッジボールなどを行った。午後は座談会と、宮古高校文化祭において使用される作品であるモザイクアート作成を手伝わせてもらった。予定では生徒会としての活動はここまでであったが、私達は被害が大きくまだ復興があまり進んでないとされる田老地区の見学を担当の先生に希望した。なぜなら私達はこの震災を自分の目で見るべきだとこの2日間で気付いたためである。

翌朝、部長先生の引率のもと野球部の交流試合開始時刻までに戻ることを条件に田老地区を見学した。その光景は凄まじいものだった。4メートルを超える堤防は引っくり返って壊れ、ホテルは1、2階の鉄骨がむき出しになり、震災後に建てられた復興工事用のプレハブ以外の建造物はほとんど残っていない静かな空間が広がっていた。比較的復興の早かった宮古駅周辺に比べて大きく傷跡を残す田老地区では、この震災がいかに甚大であったかを直接的に感じることが出来た。街の高地移転計画がたってはいるようだが、まだ先は長そうである。

この震災から防災技術は進歩し、次の災害の被害者を減らすことには繋がるだろう。ただ私達は今回の震災を忘れてはならないし、自分の目で見ることでしか大切なことは理解できない。そのためにもこの宮古交流を来年以降も続けて欲しいと思う。

※文化祭で販売したアワビの貝殻ストラップは、おかげさまで200個完売し、売上金は「かけあしの会」にお送りしました。

(参考)  
2013年度文化祭チャリティのページ

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