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2025 宮古訪問プログラム

東日本大震災後の2011年9月に高等部の文化祭に宮古高校の生徒を招待したことから始まった岩手県宮古市との交流。
翌2012年に高等部ラグビー部が訪れ、その後様々な立場の生徒が交流をしています。
14回目の今年は8月5日(火)~8月7日(木)の日程で13名の生徒が岩手県宮古市を訪れました。

1日目は浄土ヶ浜海岸を訪れ、遊覧船「宮古うみねこ丸」に乗り、三陸ジオパーク・ジオサイトをガイドさんと共に巡りました。ここでは自然の雄大さと美しさを感じました。
続く学ぶ防災では、震災遺構になった「たろう観光ホテル」を訪れ、その場所で撮影された津波の映像を見ることで、自然の力の恐ろしさを感じ取りました。

2日目は、岩手県立宮古高校の生徒の方々と交流しました。今年度は「被災地の心のケア」というテーマで岩手県心のケアセンターの方をお招きし、講義やディスカッションを宮古高校の生徒さんと共に行いました。
午後はわかめの茎取り体験、公営住宅にお住いの方との交流会、災害伝承資料館見学と盛り沢山の1日でした。

3日目は宮古市役所を訪れ、宮古市災害対策本部室を見学させていただき、市役所がどのように連携を取って対応するのか、間近に見ることができました。

《生徒の感想》

一番印象に残っているのは、展示や説明よりも、実際に現地で感じ取った宮古の人々の「この地で生き抜こう」という強い気概でした。訪問する前、私は正直こう思っていました。「なぜ幾度も大津波に襲われてきた土地に、あえて住み続けるのだろう。もし私だったら、家族とともに安全な地域へ移るはずだ。3.11を経験していればなおさら、恐怖から離れ、安寧を求めるようになるだろう」と。しかし、実際には人々は震災を経験しながらもその地を離れませんでした。そこには「自然は淘汰できないもの」という前提があり、その上で共存の道を選ぶ知恵がありました。

宮古市で見た海は、本当に美しく、青く、輝いていました。その光景からは、あの日の荒れ狂う津波は想像もつきません。けれども、人々は海がもたらす水産資源の恵みと同時に、その危険性も深く知っている、「天災を防ぎきる」のではなく、「被害を最小限に抑える」、危険な時は潔く離れる、そうした発想が生活に根づいていました。その知恵は「津波てんでんこ」という言葉にも象徴され、世代を超えて受け継がれています。この考え方は、宮古に来なければ決して理解できなかったと思います。また、なぜ人々が残るという選択をしたのか、津波のリスクがある場所にとどまり続けたのかという理由も行ってみて初めて言葉ではないところで胸に落ちた気がします。だからこそ、この地で踏ん張る皆さんを応援したい、つながっていたいという思いが本当に湧いてきました。

災害公営住宅を訪れたとき(是非また訪ねたい場所です。)や、ある女性に声をかけてもらったとき、震災の話題は一切していないのに、ふと「あの頃はね」と話が始まることがありました。その「あの頃」は震災前を意味しているようでした。思い出したくないはずの過去は、直接触れなくても自然に呼び起こされる、そして、その痛みを心のどこかで共有しながら、人々はつながり、支え合っているのだと思います。

一方で、私たちのような訪問者の存在が、地域の人々に過去と向き合わせてしまうこともあります。資料館ができたことだって、全員にとって喜びではないかもしれません。原爆ドームと同じように、それが辛い記憶を呼び起こすきっかけになる人もきっといるはずです。それでも宮古は、街全体として「私たちはこんなに辛い目にあった」という被害の訴えに留まらず、「皆さんに支えられてここまで来た。次は防災意識を伝える番です」という方向へ舵を切っています。

悲しみから未来へのシフトは、決して容易ではなかったはずです。自らの傷を抱えたまま、それを未来を守る知恵として外へ開く、それは、被災地として生き続けるのではなく、未来を守る地として生き直すことです。宮古は、単なる震災の記憶の地ではなく、自然と共に生きる覚悟を継承する地でした。

最終日、市庁を訪れた際に「皆さんにとっての復興とは何ですか」という質問をしました。実は、一日目からこの問いを持ち続けていたのです。映画を観たとき、私は復興と復旧を重ねて考えてしまっていたことに気づき、初めて「心の復興」という側面を意識しました。被災者の方が被災前の暮らしと比べ、それをより良いものと感じられる状態、それが私の中での「復興」の答えでした。

けれど宮古での日々を重ねるうちに、考えは逆にまとまらなくなりました。職員の方々の答えを聞いて、それが「復興の形は人によって違う」からであったと気がつきました。皆さんお一人ひとりがそれぞれの立場からの「復興」をお話ししてくださいましたが、それぞれが自分にとっての復興を目指すことが、最終的に被災地全体の復興につながるのだと分かりました。そう考えれば、私たち外から来た若者も、交流や発信を通じて「自分なりの復興」に関わったと言えるはずです。

復興の定義が違えば、復興の終わりの時期も人それぞれ異なります。だからこそ、時間をかけ、お互いの足りない部分を理解し、補い合っていく。その先にこそ、真の意味での復興があるのだと感じました。

また、実際に行ってみて、震災が生んだ目に見えぬ分断に触れられた気がします。ニュースやネットからは決して分からない現実でした。引率してくださった先生が最後におっしゃっていた、「どの避難所に行き着いたか、どんな支援を受けられたかから分断が始まる」という言葉は衝撃でした。同じ被災地の中にも、条件や偶然によって差が生まれ、その後の生活や人間関係に影響を及ぼしていく、その現実を知ることは、震災の理解をより深くするものでした。

宮古高校の生徒さんとの交流会では、心のケアについて学びました。専門的な支援だけでなく、日常の中で相手を思いやることこそが心を支える力になることを知りました。その姿勢は、被災地支援の場だけでなく、私の生徒会活動にも活かせます。例えば、意見が分かれたときに相手の背景や気持ちを聞き取る、困っている人にさりげなく手を差し伸べる、そうした小さな積み重ねが、安心できるコミュニティをつくるのだと学びました。

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