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2023年度フィリピン訪問プログラムに参加した生徒のレポート

教育/平和・共生学習/フィリピン訪問プログラム

フィリピンプログラムを終えて

1.私がフィリピン訪問プログラムに参加するまで

 2023年度フィリピン訪問プログラムへの参加が決まった時、私は「ついにフィリピンに行けるんだ」ととても嬉しかった。今年度、高等部からフィリピンに行けるのは5人だけ。申し込みの選考結果がわかるまで、行けなかったらどうしようと思っていたが、結果がわかってから、毎日じわじわと幸せを噛み締めていった。それは、今回のプログラム参加に至るまでの3年間、ずっと待ち望んでいた渡航だったからだ。そして、喜びと同時に、絶対何か自分の中に何か持ち帰ってやるぞという責任感もあった。
 2021年3月、新型コロナウイルス流行の影響で、青山学院のフィリピン訪問プログラムは中止になった。当時中学2年生で参加することが決まっていた私は、絶対にいつかまた参加したいという思いを今まで持ち続けてきた。青山学院では、Child Fund Japan(以下CFJ)という団体のスポンサーシッププログラムを通して、フィリピンの貧困地域にいる子どもたちの支援をしている。高校生になってからの3年間、私は高等部で支援している3人の支援チャイルドについて学校内で広める活動をしてきた。最初は、メンバーも少ないなか地道に活動してきたが、2023年2月に初めてチャイルドに手紙を書くイベントを開催、同時にフィリピンプロジェクトという団体を作った。さらに、2023年度文化祭では、フィリピンプロジェクトとして展示をすることに成功した。そして今、高等部を卒業した後、ついに念願のフィリピン訪問プログラムに参加することとなった。渡航が決まってからは、現地の人との距離を縮めたいと思って、タガログ語も勉強してみた。私にとって、今回の渡航は、3年前からの思いと今までの自分の活動の、一つの終着点になると思っていた。

2.フィリピンの印象

 渡航が3年越しになった分、フィリピンに対しての想像やイメージを今までたくさん抱いてきた。今まで本で読んだり何度も人から説明されてきたが、私が実際にフィリピンに行ってみたかった理由のひとつは、支援の現場やフィリピンという国を自分の目で見て感じてみたいという思いだった。短い間だがフィリピンに滞在してみて、日本とは違う点や、独特の空気をいくつも発見した。例えば、水道水は飲めないため、歯磨きや口を濯ぐにもミネラルウォーターが必要だということ。ご飯の味は少し甘い香りがついていること。トイレは手桶で流すものがあったりトイレットペーパーがなかったり、便器の上に登るタイプのものもあること。ジープニーという、窓やドアがないフィリピンのバスに乗った時に感じる風の気持ちよさや湿気や温度は、今でもすぐに思い出せる。特に旅の前半に滞在していたイロイロという町やギマラス島の自然と空気は、こうして文章を書いている今でも恋しいと思ってしまうほど美しかった。それに、マンゴーがとても美味しい。旅の2日目には、そのギマラス島に行き、支援チャイルドが集まるセンターを訪問した。

3.支援が終わるギマラス島
ギマラス島1日目

 ギマラス島は、マニラから飛行機でパナイ島のイロイロまで移動した後は、小さな船でしか行くことができない島だ。フィリピンに到着して2日目の朝、30分ほどかけて船がギマラス島に到着すると、そこには数人の支援チャイルドがいて、私たちを出迎えてくれた。すると、私たち一人一人の名前が入っている、マンゴーの形をしたビーズのネックレスをプレゼントしてくれた。その時、チャイルドはみんな名札をつけていたのだが、その中にK(※支援チャイルドの名前を頭文字のみで表記しています)という名前があった。名前と顔を見るなり、すぐに高等部の支援チャイルドの1人だと気がついた。今までは報告の資料の写真でしか見たことなかった彼女が目の前にいて、ネックレスを配っていた。私が文化祭でメッセージを集めていた相手のKについに会えて、心が暖かくなるのを感じた。フィリピンに来てよかったと思った瞬間だった。
ジープニーに乗り、村長に挨拶した後、支援チャイルドがいる場所まで向かう。ちょうど最近日本で運転免許を取得し、安全な運転などについて学んだのだが、かなり速いスピードでジープニーが進んでいくので内心大丈夫なのかなと思いながら、楽しく移動した。港の近くには小さな店が立ち並んでいたが、そこを過ぎると、車が通る道以外は周り一面木や草が生えていた。
 目的地に到着すると、そこには野外の体育館のような場所があり、想像以上の数の子供達が私たちを待っていた。椅子が並べられていて、青山学院一行がそこに座ると、チャイルドたちはダンスの出し物をいくつか披露してくれた。小さい子から高校生くらいの子まで、全員が一生懸命踊っている姿や小道具が用意されているのを見て、今日のためにどれだけ練習してきてくれたんだろうと思い感動した。そこでは私たちも練習してきたソーラン節やマツケンサンバを披露したり、同い年くらいの子と話したり遊んだりした。子供たちはとてもノリが良く、盛り上がってくれたので安心した。
 17歳だという女の子2人と学校生活の話をしたのが印象に残っている。話を聞いてみると、フィリピンの学校にも選択授業のような専門に分かれたクラス分けがあったり、クラブ活動のようなものがあるという。他にも、携帯を持っていて好きなアーティストがいることを教えてくれたり、彼氏がいるかどうか話したり、普段同級生とたわいもない会話をするのと同じ感覚だった。私はその時ただ楽しくおしゃべりしていたが、振り返ってみると、それは今まで自然と抱いていた貧困地域の子供たちとの会話の場面とは違っていた。壁を感じたり、同じような話題では盛り上がれないのではないかと心配していたからだ。
 ギマラス島に到着した日の夜、高等部生みんなと先生とでミーティングをした。ミーティングでは、それぞれが気づいたことを付箋に書いて、それを模造紙に貼りながら整理していく。私が感じたのと同じように、他のメンバーもまた、チャイルドたちの独特の雰囲気を感じ取っていた。私たちは、貧困地域の子どもは目つきが怖かったり苦しそうな表情をしていると言うイメージを無意識のうちに抱いていたが、ギマラス島ではみんな笑顔で、年齢関係なくその場にいる子どもたちと楽しく遊んでいたし、私たちに対してもとてもフレンドリーだった。さらに、ダンスの発表のために素敵な衣装を着ていたり、綺麗にお化粧をしたりしていた。一方で、小さい子どもたちは持ってきた折り紙や日本のおもちゃをとにかく欲しがるなど、少し貧困と言うイメージが見え隠れしていたと言う指摘もあった。それでも、私たちに一生懸命ダンスを披露してくれた時の生き生きとした表情は今までには見たことのないものだった。

「バリューフォーメーション」という支援の形

 このようないわゆる「貧困」が持つイメージとチャイルドの違いは、CFJのスポンサーシッププログラムで実施している「バリューフォーメーション」が影響していると考えられる。「バリューフォーメーション」という言葉は私たちのミーティングでもよく登場する言葉だが、一言で説明するのは難しい。私の言葉で言うなら、自分の存在の尊さ・大事さを自覚して、逆境にも屈しない精神面での強さの事。また、自分の意見に自信を持つこと、他人の意見をリスペクトできる精神でもあると思う。かつてギマラス島での支援を主導し、今は亡きDr.リーさんは、バリューフォーメーションとは「光」である、と言っていたという。例えば、ドラッグが蔓延している環境で、フィリピンの子供たちはバイヤーとして使われるケースが多いが、その時に予防策になるのもバリューフォーメーションであると考えていたらしい。バリューフォーメーションの教育を受けた子供たちは、相手の気持ちを感じとって尊重し、自分に自信を持ち、目の前の問題に向き合って乗り越える力をつけていく。ギマラス島1日目の夜、私たちのミーティングの話題はバリューフォーメーションに移り、「バリューってなんだろう?」という疑問について意見を交わした。
  バリューフォーメーションについてもっと知りたいと思った私は、翌日、元支援チャイルド(CFJの支援は高校卒業まで)のP(※名前を頭文字のみで表記しています)さんにインタビューをした。Pさんは今24歳で、大学を卒業して学位を取得した後、学校の先生になるための準備をしている。大学では、「目指す人が比較的少ないから」という理由で音楽・美術・体育・保健(フィリピンの学校では4つまとめて1科目)の先生の資格をとり、現在はインターンを終えたそうだ。Pさんに私が「支援チャイルドになって変わったことや良かったことは何ですか?」と尋ねると、「自信を持って自分の意見を言えるようになったこと」と答えた。初めは緊張してできなかったそうだが、スポンサーシッププログラムに参加するようになってから、サマーキャンプなどでMCを任されるようになり、徐々に自分に自信がついたそうだ。それらは全て英語だったため、大学で学ぶ際にも役に立ったという。確かに、彼女は日本から来た私たちを迎えるパーティーでも司会を務めていたが、その時に彼女の内側から溢れる自信を私も感じとっていた。私は、Pさんのような人こそが、CFJのスポンサーシッププログラムのバリューフォーメーションの成果なのではないかと思った。
 CFJでは、経済的な理由で学校に行くのが難しい子どもたちを支援している。学用品の支給や補食プログラムはもちろん、今回の私たちに披露してくれたダンスの練習やそのほかのイベントへの参加も支援の一環として実施されている。また、CFJの支援を受けられるかどうかは、支援する子供の親とCFJスタッフが面接をして、プログラム主催のイベントやセミナーなどに参加できるかどうかなどを聞いて決める。ギマラス島の支援センターでセンター長をしているJoeyさんと話した時も、「一番大事なのは親や家族の理解」と言っていた。親が協力的な家庭であることが、限られた予算の中で一番効果的に支援するための最低条件だという。このような支援は、私が想像していた「ボランティア」や「支援」の形とは全く違った。CFJの支援に興味を持つ前は、支援というと食事を与えたり学校や家のインフラを整えたりと言う、目に見えるものだけが頭に浮かんでいたが、今回の経験を通して、目に見えない支援の形が存在することを知った。 そして、私は目に見えない支援こそが長期的な目で子供達や地域社会を良い方向に変えていくのではないかと思った。

支援が終わる

 そして、私たちは事前に今回が最後のギマラス島訪問になると伝えられていた。理由は、このギマラス島がCFJの支援対象地域ではなくなってしまうからだ。支援が中断されてしまうと、現在支援チャイルドになっている子供たちは当然、今までのような活動はできなくなってしまう。CFJからの支援が終わった後は、元支援チャイルドの母親を中心に運営している協同組合から資金を調達しながら、子供たちのサポートを続けていくそうだ。私は、子供たちと交流しながら、この子達は支援が終わった後どうなるんだろう、大丈夫なのかなと心配になった。
 現地スタッフは、CFJの支援が終わってしまう理由を教えてくれた。一つ目は、スポンサーの数が減ってしまい資金的に難しいということ、次に、ギマラス島はフィリピンの中でも最も貧しい地域ではないということ、最後に、ギマラス島では30年支援を続けてきて他に支援すべき地域があるということだった。この、他の支援すべき地域というのが、旅の後半で訪問したナボタスという地域だ。

4.支援が始まるナボタス
スモーキーマウンテン

マニラに移動した私たちは、フィリピンに来て6日目、ナボタスという地域と、スモーキーマウンテンという場所を訪問した。
スモーキーマウンテンというのは、かつてマニラにあった巨大なゴミ山のことで、その周辺にあるスラムは東南アジア最大と言われる。以前は多くの人々がスモーキーマウンテンに集められたゴミを売って生計を立てて暮らしていたが、1995年に山が政府によって閉鎖されたのと同時に、その住民は強制退去させられ、政府が建てたマンションに移り住んだ。今回私たちが訪問したのはスモーキーマウンテン跡地、そしてSM ZOTOという団体の事務所だ。
スラムを歩くにあたって、旅行会社からは何度も「ボディーガードはつけましたか?」と聞かれたそうだ。私たちもスラムに行く前には先生から「これから行くところは犯罪多発地域です。緊張感を持ちましょう」と何回も言われた。そういう危険な地域にせっかく行くのだから、絶対色々なものを目に焼き付けようと思った。
 私たちはまず、橋の下に住む人たちを訪ねた。どうなっているのかわからないが、橋の下側に家のようなものがくっついていて、それらが連なり浮いていた。その家の中に入っていくと、昼間なのにあたりは暗く、狭かった。小さい子供がいたり、泣いている赤ちゃんの声が聞こえたり、猫が歩いていたりした。正直、私がここに住めと言われたら汚くて住めないようなところだったが、このような家に何組もの大家族が住んでいるのだと聞き、信じられない気持ちになった。その時ぱらぱらと降った雨は、黒っぽかった。
 安全のため、初等部生を分散させるように隊列を組みスラムに進んで行くと、意外にも人々は人懐っこく、手を振ってくれる子供や「Korean? Japanese?」と聞いてくる人が多かった。それでもギマラス島で見たような子供の雰囲気とは少し違う。あたりにはゴミが散らばり、上半身裸の人や、道端で髪を洗う子供がいた。立ち並ぶ家も危なっかしく、どこまでが誰の家、というのが一目ではわからないし、中はとても暗い。さらに、至るところに犬がいて吠えていた。日本にいる犬よりも目つきが獰猛なように見えた。道では黙々とゴミの仕分けをしている人をよく見かけた。私だったら暮らせないくらい汚いところに小さい子供や赤ちゃんがいて遊んでいた。途中、スモーキーマウンテンから強制退去させられた人たちのためのマンションが見えた。そのマンションは建設当時から約30年、おそらくリフォームなどが施されておらず、インフラも整っていない。マンションの中に水道・下水設備はないため、マンションの階が上がるほど家賃は安くなるという。気温は約30℃、日差しは強く暑かった。私には非現実的な光景に見えたが、これがここに住む人たちの日常なんだと思った。

SM ZOTO

 スラム街を一通り歩いた後、私たちはSM ZOTO(以下ソト)という団体の施設に向かった。ソトはマニラのスラムを中心に、高校から学校をやり直すための試験に合格するためのサポートなど、子供を支援する活動を行っている団体で、2024年夏からCFJの傘下に入る。以前からソトとCFJは協力して子供の権利や暴力に関する啓発活動をしており、ソトが協力的でしっかりとした団体であること、もっと資金が必要だと言う判断から、新しい支援地域になるそうだ。また、ソトでは、DV、貧困問題、ジェンダー平等など、自分たちの抱える問題について声を上げるための音楽活動もしている。ソトの建物に入ると、バンドとダンサーが私たちにパフォーマンスを披露してくれた。曲調は明るくアップテンポで、バンドの歌も演奏もクオリティが高くて驚いた。しかし、事前に資料としてもらっていた歌詞を見ると、親からの暴力に苦しむ子供たちや体を張って働く子供たち、お金のために体を売る子供たちなど、様々な問題にスポットライトを当てた内容になっている。ダンスも、歌詞に関連した振り付けになっていて、途中で殴られるポーズなどが登場した。さらに、みんなで楽しく自己紹介をした。一人一人が、自分の名前と名前の頭文字にちなんだ英単語を言っていくのだが、ソトのスタッフや子供たちがとても楽しく盛り上げてくれるので、私たちの緊張も少しずつほぐれていった。
 私たちもまた、練習してきたソーラン節とマツケンサンバのパフォーマンスをした。ダンスはとても盛り上がって、最終的には、大人も子どもも関係なくみんなで一緒になって踊った。普段踊るのは得意ではないけれど、時間を忘れるほど楽しくて、暑くて汗だくなのもダンスが下手なのも気にならなかった。最後に全体に向けて感想を言う機会があり、「音楽は人と人をつなぐ力があると思います」と言った時、ソトの人たちがみんな大きく頷いてくれたのが思い出に残っている。

6日目のミーティング

 6日目にも今までと同様、夜に振り返りのミーティングを行った。また渡航メンバーでその日気づいたことや考えたことを発表していくのだが、その中でも印象に残っている話題が2つある。1つ目は、スラムでのスマホの普及について。スラムを歩いている時、多くの子供がスマホを持っているという話が出た。中古だとしても、スマホを手に入れるくらいなら、家などのインフラを整えたほうがいいという意見もあった。それでも多くの人がスマホを持つ理由は、テレビもない中でスマホが情報源になること、ゲームをしたり音楽を聴ける場所を取らない簡単な娯楽であることなのではないかと私たちは考えた。一見便利だが、メディアリテラシーの低さが今までにない新しい課題も生んでいる。児童ポルノや売買春、オンライン上での性的搾取など性暴力の問題だ。スマホのマッチングアプリなどのツールはそのような性的搾取に繋がり、まだ小さい子供たちの収入源に簡単になりうる。自分よりも小さい子供にとって、それがここでは当たり前になっているのだと知って、同じ地球に住む人間として、子供たちが嫌な思いをしないような世界になって欲しいと思った。
 2つ目は、ソトの人々から感じ取った「強さ」だ。これは1年生の優依さんが指摘していたのだが、音楽を通して自分たちが抱える問題について声をあげようという独特の強さを感じたといい、私もそれに同感だった。暴力やLGBTへの差別など、周りの人ではなく当事者が自ら問題提起していくことには大きな意味がある。例えば、特にスラムでは家庭内暴力が日常化していて、しつけと暴力の線引きが難しく、自分たちが虐待の被害者であることに気づくことさえ難しかったり、その状況に慣れてしまいがちだという。このような問題を、ソトは音楽を通して「気づかせる」という活動に力を入れていて、様々な場所に出向いてライブを行ったり、既にCDを5枚制作したと言っていた。自分たちの弱い部分を他人にさらけ出して堂々と表現する姿にはやはり強さを感じたし、尊敬すべきところだと思った。

5.2つの「貧困地域」

 今回の旅で、ギマラス島、マニラのスラムと、大きく2つの地域を訪問した。2つの地域は同じ「貧困地域」と言っても全く違う環境で違う問題を抱えていることを知った。そして、それぞれ「支援が終わる地域」と「支援が始まる地域」でもある。
 ギマラス島では、地域社会や家族の協力、人との関わりを大切にしながら、子供が学校に行ったり将来仕事に就けるように長年支援を続けてきた。バリューフォーメーションなどの見えない支援にも力を入れていて、元支援チャイルドや高校生くらいの子からはその成果が伝わってきた。親の協同組合の運営をするなど地域での自立を目指すためのプロジェクトも続けてきたが、まだ道半ばだ。このような状況で、ギマラス島への支援は今年終了する。
 マニラのスラム周辺では、都市部で広がる格差社会のなかで、スマホやドラッグ、売春など、特有の課題があることがわかった。そして、その中で活動するソトは、当事者による問題提起、教育のサポートなど、CFJのスポンサーシッププログラムとはまた違った切り口で貧困から起こる問題から脱出しようとしていた。私たちがスラムを歩いて分かった通り、生活も衛生環境もままならないこの地域で、今年の夏からCFJの支援が始まり、これから子供たちの暮らしはどのように変わっていくのだろうか。
 ある時、引率の藤本先生が「貧困のあり方は地域の数だけある」というようなことをおっしゃった。同じ支援を他の地域ではできないし、課題が全く違うから地域ごとに支援の方法を変えなくてはいけない。私たちは、今回のプログラムで対照的な2つの「貧困地域」を実際に見て感じることができ、その言葉の意味を理解できたと思う。貧困というのは一言で表せる問題ではなく、地域によって、そこに住む人々によって課題は異なるし、絡んでくる問題も変わってくる。2つの地域を訪問したことで、貧困問題がいかに複雑であるかを体感した。

6.プログラムを終えて
私が感じた違和感

 私がこの7日間での経験やミーティングを通して、違和感を覚えた点がある。3日目のミーティングで話題になったことなのだが、それは、支援する側がいなければ成り立たないという仕組みが持つジレンマのようなものだ。
 前述したように、私たちはギマラス島でバリューフォーメーションなどの「目に見えない支援」の大切さを学んだ。それは心の成長であり、「逆境を乗り越える力」であり、長期的に少しずつ効果をもたらすものだ。そしてそれは成果として数字で表せるものではないが、子供達の中に残り続けて、生涯を通じて良い影響を与えていくものだと思う。それはむしろより多くの人に何かを配布するような、数字でわかりやすい支援よりも大事なのではないかと思う。しかし、NGOを通じて支援をする以上、数字による成果報告がある程度必要であり、支援の大前提である資金を提供するスポンサーにとって、報告はとても大事なものだ。
私が違和感を覚えるのは、私が現地で感じたような人の温かさや明るい雰囲気こそが支援の効果で現実なのに、それをスポンサーに正確に伝える手段が数字や報告書しかないということだ。もっと、目に見えない支援の大切さや長期的な意味を、遠くにいるスポンサーに分かってもらえる手段があればいいのにと思い、もどかしさを感じた。

実際に行くということ

 前にも書いたが、私がプログラムに参加したいと思った理由の一つは、献金をしている子供たちに会って、実際に行かないとわからないことを知りたいということだった。普段日本で暮らしていると、なんとなく献金をしてしまい、その先にある世界を考えることをあまりしないように思う。それでも手紙のやりとりを通して、支援チャイルドにも私たちと同じように日常があって生活があるということを意識するようになった。そして、私は現地に行ってお互いに1人の人間として接してみたいと思った。学校でのイベントや勉強会という環境から飛び出して、自分の目で現実を見てみることにはたくさんの意味があった。支援を受けている子供たちやその母親、現地の支援センターのスタッフから直接お話を伺ったり、子供たちと楽しく遊んだり、島の自然やスラムの空気を浴びたりして、今まで遠いと思っていた世界は実はそうではないことを知った。そして、生活や住む場所は違っても、別世界のことではなく、同じ星に住む同じ人間なのだということを強く感じた。私たちは世界で起こる貧困や紛争などの問題を無視しながら生活することだって出来る、と以前は考えてしまうことがあった。しかし、フィリピンに行ってから、そういった問題は全部他人事ではないんだということを常に意識するようになった。今では、この作文を書いているこの瞬間にも、訪れたあの場所で日常が続いているんだということを考えて想像してしまう。

なぜ支援するのか?

 最後のミーティングで話題になった、「私たちはなぜ支援するのか?」ということについても考えをまとめようと思う。これは、このプログラムの最後の問いとして先生が投げかけたものだった。その前に、「貧困は自己責任」という意見について話した。それを踏まえての私の考えはこうだ。実際に現場を見たりみんなで意見を交わしたりしても、貧困問題は単純ではなく、到底自分たちで解決出来るものではないとわかる。それに、政府に援助を求めても「検討する」としか言ってもらえない。国が何もしてくれないのなら、私たちが何かしないで他に誰がしてくれるというのか。
 他のメンバーの意見も、ずっと頷きながら聞いていた。「私たちはいつも狭い世界を生きていて、知っていることや想像力が貧しいから『貧困は自己責任』なんて言える人がいる」「生まれた場所で人生が決まってしまう現実の方がおかしい」本当にその通りだと思うし、自分とは違う意見が聞くことができてさらに自分の意見が変わったり強くなったりした。
なかでも特に印象に残っているのが優依さんの考えだった。支援される側とする側の壁というのがどうしても存在してしまうが、する側が偉くて上だとかいう考えはなくなるべき。支援をする側は成果を求めたりするのではなく、勉強する環境を整えたりして、世界の子どもたちみんなが同じ環境になるための当たり前の行為として支援をするべきなのではないか。
 私はその考えを聞いた時、世界の様々な地域の子どもたちが私たちと同じように教育を受けたり生活している光景が頭に浮かんだ。そんな世界は夢でしかないのかもしれないが、その景色に少しでも近づけるように、自分にできることをしていきたいと思った。そんなことを考えて、ついに最後のミーティングが終わった。

私のこれから

 フィリピンから帰国して、フィリピンで学んだことや大切な思い出に浸る日々を過ごした。一緒に行った友達とは「フィリピンに帰りたい」と口癖のように呟いていた。それでもいつまでも思い出に浸る暇はなく、すぐに大学生活が待っていた。次に進まなくてはと思い、これから自分はどうなりたいか、何をしたいか、たくさん考えた。もっと英語の勉強をして、いろんな人の意見をもっとスムーズに聞いてコミュニケーションをとりたい。もっと勉強をして、困っている人の役に立ちたい。今まではすぐに「今日は学校に行きたくない」「勉強したくない」と思っていたが、フィリピンで出会った支援チャイルドのことを思うとそんなことは言っていられないし、自由に勉強ができる環境や大学に行けるということに感謝して、自分が頑張らなくてはと身が引き締まる。今回の旅は今までの活動の終着点になると思っていたが、そんなことはなくて、むしろここからがスタートな気がした。
 最終日の合同ミーティングの終わりに藤本先生が「皆さんは『風の人』になって下さい」とおっしゃっていた。現場で働く人を「土の人」と呼び、それに対し、学んだことを自分の地域やコミュニティに帰って広めていったり、支援のあり方を考え直すことで現場と繋がる人を「風の人」と呼ぶそうだ。これから自分にできることは風の人になることだと思った。そのためにはいろいろな方法、生き方があると思う。自分のやりたいこと、得意なことを最大限に活かして、私が思い描く景色に世界が近づくために、今この瞬間から頑張りたい。

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