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イースター礼拝「名を呼ばれて」

イースター礼拝「名を呼ばれて」(ヨハネ 20:11~18)

山畑 謙先生(小金井緑町教会牧師) 2016年4月12日

イエス様の十字架を前に、弟子たちはみんな散り散りに逃げてしまいました。イエス様の血だらけの体を拭いて葬りの応急処置をしたのは、女性たちでした。その一人に、マグダラのマリアという人がいました。彼女は、イエス様に七つの悪霊を追い出していただいた婦人であったと聖書に記されています。悪霊とは、人が自分の力ではどうすることもできない悪しき力で人を縛り、支配するものです。それが一番わかるのが病気です。治したいと思ってどんなに一生懸命に自分の心で念じても、病気は治らない。悪しき力の支配は続き、私たちの肉体を痛めつけ、苦しめます。それが七つもあったというのです。七というのは、聖書では完全数であり、悪霊に完璧に支配されていたということを表します。

この2月、私の孫が1才になろうとする時、手の手術をすることになりました。無事手術は終わり病室で療養していた時、同室の子ども達は難しい病気を負っていました。その病気は、小さな子どもたちの体にとてつもない痛みを負わせます。母親であるうちの娘が、いかに術後の経過が良いかという孫の動画を夜に送ってきてくれたものに、元気にしている孫の背後から聞こえてくる声がありました。それは、同室の子ども達のうめきと泣き声でした。「ママ~、ママ~!」と呼び続ける声。言葉にならない痛みがうめきとなって響いているのです。暗い夜の小児病棟の現実がそこにあり、昨日の夜も、今日の夜も、きっとある。病気の苦しみを思う時、その小児病棟に響く声が、私には重なってくるのです。

マグダラのマリアという婦人は、そんな自分ではどうすることもできない悪しき苦しみを七重に受けていた。毎日うめき、叫び、涙を流し、のたうち回らねばならない。そんなマリアから、七つの悪霊を追い出して救い出して下さったイエス様。マグダラのマリアにしたら、イエス様は、恩人などという言葉では言い尽くせない、自分にとってかけがえのない人であり、この方のためなら、自分の残りの人生のすべてをささげてもよいとまで思うほどの方であったでしょう。そして実際に、主イエス一行についてきて、主イエスの身の周りの世話をしていたようです。

それほどまでの恩義を感じているマグダラのマリアが、今日の聖書の場面では、目の前に立っておられる方が心から愛し深く慕っているイエス様だとわからなかった。彼女にとっては、愛するイエス様は死んで亡骸となっている。無理もないかも知れません。おそらくその手で十字架からとり降ろされたイエス様のお体の手当をしたのだし、完全に死んでしまった事を、一番近しく見て、触って、知った一人だったのだから。その厳然たる死の事実を背負っているマグダラのマリアには、「復活」などということは、確かイエス様が予告されるのを聞いていたけれども、考えることもできません。

なんと悲惨なことでしょう。なんと悲しいことでしょう。マグダラのマリアが七つの悪霊でどれほど苦しんできたかを思うほどに、そしてそこから解放されてどれほど主イエスを慕っていたかという事を思うほどに、本当に悲しくてならないと思うのです。愛するその方は復活して、目の前に立っている。それなのにわからないなんて。しかし、ただ悲しさを思うだけではいけません。ここには大切な事が示されています。それは私たちの熱い思いや特別な経験や知識では、救い主がわからないということです。現代の私たちで言うならば、キリスト教や聖書の知識をいくら持っていても、マグダラのマリアのような熱い思いを持っていても、あるいは驚く奇跡のような経験をしたとしても、キリスト教の一番大事なところが分からないままなのです。復活し、今も生きていたもう救い主が見えないのです。分からないのです。どうしたら分かるのでしょう。どうしたら見えるようになるのでしょう。

マグダラのマリアは勘違いをして、イエス様を園庭だと思い、主の亡骸をどこに運んでいってしまったのかと聞きます。見えていても見えていないマグダラのマリアの目を開いたのは、イエス様のたった一言でした。「マリア!」。自分の名前を呼ばれて、マリアはついに目を開かれました。名前は、その人の人生の歴史が込められている名前なのです。「マリア」という名には、七つの悪霊にさんざん苦しめられて悲しかったこと、辛かったこと、悔しかったこと、否、ネガティブな事だけではなく、喜びや嬉しかった事も、すべてが含まれています。イエス様は、そのすべてをわかっていてくださり、彼女の持っている弱さや限界を受け入れ、さらには罪を赦す力をもってその名を呼ばれたのです。それは責めて弾劾する声ではなく、赦して受容する声でした。

ロシアの文豪・ゴーリキイという人が『どん底』という戯曲を書きました。その中で、こんな言葉を残しています。 「俺ァ、餓鬼のころから泥棒よ。いつも皆から泥棒とはやされてきたんだ。こんなになったのも、世間の奴らが泥棒呼ばわりするばっかりで、ほかの名で呼んでくれる者がいなかったからなんだ。なあ、ナターシャ、ひとつ俺に名前をつけてくれ」。泥棒のペーペルは秘かに好意を抱くナターシャに自分固有の名前をつけてくれと哀願するのです。自己批判をし、新しくやり直していこうと志すとき、自分をかけがえのない一人の人格として、固有名詞すなわち名前で呼びかけ、受け入れてくれる愛を彼は必要としていた。ゴーリキイが描き出したどん底に生きる人に、なお生きる希望を与える道が、名を得ること、固有の名を呼ばれることであったのです。戯曲『どん底』でそれを呼んでくれるのを願う相手は、ペーペルにとっては愛するナターシャ。ペーペルにとってのイエスさまがナターシャに重なってきているのではないかと思います。

今日の聖書の御言葉は、過去の話ではありません。今、私たちにも、私たち一人一人の名を呼ぶ方がある。私たちが生きる意味や目的が見えなくなり、自分を愛する人たちも見えなくなり、すべてがネガティブにしか考えられなくなり、それでも何とかならないかともがいていくような時、君の名を呼ぶ方があるのだと聖書は告げている。この方こそ、私たちが生きることを根底から支えてくださる。十字架に架かり、すべての罪を身代わりに負ってくださったイエス様が、復活して今も生きておられるイエス様が、君の名を呼ぶ。理屈ではなく、実際の苦悩の中で、耳をかたむけてほしい。君の名を呼ぶ方が、そこに。

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