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イースター礼拝「終わりからのはじまり」

イースター礼拝「終わりからのはじまり」
(マルコ 16:1-8)

伊藤大輔先生(本多記念教会牧師) 2017年度4月17日

イースターです。イエス・キリストが復活したことをお祝いするのがイースター礼拝です。 わたしたち青山学院はイースターを大切にしています。そして、このイースターの出来事を信じてほしいと願っています。また、わたしたちのスクールモットー「地の塩、世の光」、これはイースターと結びついた言葉です。

ただ、そうは言われても、皆さんは戸惑ってしまうでしょう。死人が復活する。そんなことがあるはずがない。そんなことをこの学校は本気で大切にしているのか。人類の歴史の中で一人くらい生き返った者がいるかもしれない。でも、それは今のわたしと何の関わりがあるのか。

確かにそうでしょう。「イースターを信じてほしい」と言いました。でもそれは思考を停止して、死んだ人が生き返りました、それはイエスさまです、その方を神様と言いましょう、というようなことではありません。聖書はわたしたちに思考を停止させることを求めている書物ではありません。では、聖書はイースターの出来事から何をわたしたちに語りかけているのでしょうか。

イエス様が十字架にかかり亡くなられて、その亡骸が大きな洞穴のお墓に葬られました。十字架から三日目の朝です。イエス様の遺体の処置をするために何人かの女性たちが墓に入ります。するとそこにあるはずのイエス様の遺体がありません。代わりに白い衣を着た天使がいて、その者が女性たちに伝えます。「あの方は復活して、ここにはおられない。ガリラヤに行きなさい。そこで言われていたとおり、あの方にお目にかかれる」。

さて、この話は何を語っているのか。まずはじめ舞台となっている「墓」から考えてみましょう。「墓」とはなんでしょう。死んだ人が葬られる場所です。「墓」とは「死」を現すところです。「死」の象徴です。「死」。すべての終わり。先に行きたくても行かせてくれない壁。乗り越えられない、わたしたちの力ではどうすることもできない相手です。

「先に行きたくてもいけない」「立ち止まるしかない」「引き返すしかない」「諦めるしかない」。わたしたちにも経験があります。わたしたちも知っています。どんなに勉強しても望みの点数が取れない。がんばっても試合に負けてします。心を配ってきたのに友情が崩れてしまう。行きたいのに行けない。墓の出来事はわたしたちの経験でもありますし、これから起こることでもあるでしょう。乗り越えられない壁の前に立たされた時、女性たちは言葉を聞きます。「ガリラヤに行きなさい」。

ガリラヤ、それは墓のあるエルサレムから約100キロ離れた町です。この聖書の少し前には、この女性たちはガリラヤの出身だと記されてあります。ガリラヤは、イエス様が活動を始めたところです。女性たちが、はじめてイエス様に会ったのもガリラヤです。イエスの弟子たちもガリラヤの者です。ガリラヤはすべてが始まった場所です。いちばん最初の場所。始まりです。

わたしたちは「墓」に出会うと、もうダメだ、これでおしまいだと判断します。聖書がわたしたちに語っていること。「墓」はガリラヤにつながっている、「終わり」は終わりではない。始まりです。壁は必ず乗り越えられます。

イースターの出来事は「地の塩、世の光」とつながっていると言いました。地の塩。イスラエルの塩は岩塩です。地面にあるものです。味気がなければ砂と同じです。光。輝いていなければ闇の一部、闇と同じです。塩、光、世界の中で人の希望となるものです。どうやったら「希望」になれるのか。「墓」の前に立たされても、まだ先に行けると信じる思いを心に秘めることです。みんが「もうダメだ」と言う。世界は「諦めよう」と言う。行き止まりとぶつかっても「先に行ける」と信じて、あきらめず、汗を流す。地の塩、世の光です。青山学院が社会に必要だと思っている人間です。イースターを信じる。わたしたちはそれを大切にしています。

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