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奨励「命を照らす光」

教育/キリスト教教育/礼拝の紹介

「命を照らす光」

理科教諭 2015年5月8日

ヨハネ20:29(抜粋)「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

私は理科の授業をしていて面白いと思うことがあります。原子を見たという人は誰もいないのに「原子の存在を信じますか?」などという問いがあり得ないことです。ところが現代は「見る」こと、つまり視覚情報が圧倒的に優位な社会です。感覚にはいわゆる「第六感」以外に、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の「五感」がありますが、私たちが入手する情報の8割は視覚経由だと言われています。視覚は目が光を捉えることで発生する感覚で、光がないと何も見えません。

私は40歳を過ぎた時、ある日突然、本当にある日突然でした。PS講堂での礼拝で聖書・讃美歌が読めなくなりました。視力検査では1.5あるにも関わらず、です。私は若い頃、アフリカの原野で生活したことがあり、そのためか視力は極めて良いのです。アフリカ人の視力には到底かないませんが…。アフリカ人の中には実際に視力5.0とか6.0という人たちがたくさんいます。なんせ4㎞離れた人と手を振りながら交信していたくらいです。サファリツアーのガイドが「あそこに豹がいる」「シロサイだ!」と言ったとしても、通常の旅行者にはまず見えません。ちなみに日本からのお客さんを案内するとき、アフリカ馴れしていた私の方が圧倒的に動物を見つける確率が高かったことを自慢しておきます。それくらい自分の目に自信がありました。その私が聖書を読めない…。もうお分かりだと思いますが「老眼」です。

老眼は年々ひどくなり、今では活字を見るときには老眼鏡、反対に人の顔を見るときには老眼鏡は邪魔になる、という生活となってしまいました。授業中、眼鏡をかけたり外したり、それだけで結構ストレスです。その上物忘れも激しくなり、老眼鏡の置き忘れが多く、10個ほどの老眼鏡を100円ショップで購入し、自分の行動範囲のいたるところに予めばらまいておく、なんてことも試しました。それでも修学旅行中、老眼鏡を途中で無くした時は大慌てでした。夜点呼を取る際、しおりの名表が読めないのです。結局、班別行動の折に長崎市内の100円ショップに走りました。そのようなストレスフルの状況下で昨年見つけたのが、このフロント部分で簡単に取り外しできるメガネです。外した時は首に下げておけるため、少なくとも学校にいる間は「メガネがない!」と叫ぶことは無くなりました。

ところで先日、フェイスブックを眺めていたら、著名な教育者の「教育は言葉じゃない!」という文章を友人がシェアしていて、多くの人が「いいね!」と賛同していました。その方の文脈では納得する部分もあったのですが、多くの人が「そうですよね、教育は言葉じゃない」と軽いコメントを書き込むことに違和感を覚え、「いえいえ、教育ではことばこそが大切です!」と反論を試みました。私の主張に「いいね!」を押してくれた人はわずかに4名でした。ことばが無意味だとするとこの礼拝は無意味でしょう。授業の大半が意味を無くします。

今日お読みいただいたヨハネの福音書の冒頭はこんなことばで始まります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(中略)言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」わかりにくい表現ですよね。この「言」という箇所を「イエス」と置き換えると意味が通じます。「初めにイエスがあった(いた)。イエスは神と共にあった。イエスは神であった。(中略)イエスの内に命があった。命は人間を照らす光であった。」そう、イエスは「命を照らす光」なのです。

イエスの言葉に出会うとき、私たちはその光に照らされます。目が光を捉えることで“もの”を見ることが出来るように、私たちが「イエス」という光を捉えるとき、人生の輝きは大きく変わります。私は自分の力で太陽のように輝こうとするのは傲慢であることに気が付きました。イエスの光を受け、それを反射することが私の人生の目標です。たとえ老眼になってもイエスは「命を照らす光」であり、私の人生を輝かせて下さる存在なのです。皆さんもこれからの歩みの中でイエスのことばと真正面に向き合い、イエスの光に照らされる瞬間がきっと訪れるはずです。なぜなら皆さんはこうしてこの場に導かれたのですから。

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