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2012年度フィリピン訪問プログラムに参加した生徒のレポート

教育/平和・共生学習/フィリピン訪問プログラム

61期 参加生徒

一、はじめに

一体みなさんはフィリピンと聞いて何を思い浮かべるだろうか。バナナやセブ島のリゾートと言った華やかな一面か、それともスラムやスモーキーマウンテンと言った貧しさか。どちらも間違いではない。だがそれは、ある一部分でしかないのだ。貧困という状況下においても、そこには彼らなりの人生がある。朝起きて、道に出て、職を探し、あるいは物乞いをする。当たり前のようにそれらを繰り返す中にも、彼らなりの人生があるのだ。彼らは、先進国である日本に暮らす私達には決して考えられないような環境下で、生活を営んでいる。しかしそこには「貧しさ」とか、そんな一言では片付けられないような何かがあった。この気持ちを何とかして誰かに伝えたい。私は今、その一心で筆をとっている。

私がフィリピン訪問プログラムに参加させていただくのは今回で二度目、七年ぶりのことだった。初等部生として参加させてもらった前回、自分とは全く違うフィリピンの環境に驚愕すると同時に、信じる宗教も、話す言語も、生まれ育った環境も大きく異なる人々ともわかりあえるということを実感できた。その時から、「いつか国際協力に貢献したい、国際関係の機関で働きたい、貧困問題を解決したい」ということが私の夢になった。そして国際政治経済学部への進学をひかえたこの春、二度目のフィリピン訪問プログラムに参加させていただいた。これからの大学での学び、そして進路を考える上でも重要になるであろうこの旅で、多くのことを吸収したい、支援に対する答えを見つけたい、と私は強く意気込んでいた。

二、実際に現地へ行って

空港につくと、あのもわっとした熱気とがやがやとしたさわがしさにつつまれる。一見七年前と何も変わらない光景に懐かしい気持ちがこみあげた。それと同時に、車が信号で止まるたびにやってくる物乞いの人たちや、窓ふきの人々を見て、苦しい気持ちもありありとよみがえってきた。

その日の夕方、マニラの街角を通ってホテルからレストランへと向かった。大通りには出店が立ち並び、活気にあふれている。だが少し端のほうに目をやると、物乞いの人々が座りこんで手をさしのべてくる。暗がりの中で、ボロボロの服を着てお金をねだってきた幼い姉妹の姿を、私は忘れることができない。彼らは一日中そうやって手をさしのべ続けているのだろうか。自分ではどうすることもできないその状況をどう思っているのだろうか・・・。私にはうつむいて、足早にその場を立ち去ることしかできなかった。

その日の夜のミーティングで先生が、
「貧困街から大きなショッピングモールに入った時、どこかほっとしなかったか。」
と皆に問いかけた時、どきっとした。綺麗なモールに入った時、間違いなく安心していた自分がいたからだ。大きなモールのすぐそばに立ち並ぶ貧困街。同じエリアなのに完全に住み分けができてしまっていて、そのためにモールの入り口には銃を持った警備員が立ち、セキュリティチェックを行っている。そしてそこでは、私達日本人は明らかに金持ちサイドに属していた。ごちゃごちゃと店が立ち並び、物乞いの人々が手をさしのべている貧困街から大きなショッピングモールに入った時に、自分でも気付かないうちに居心地の良さを感じてしまっていたのだ。所詮自分は安全な金持ちサイドから傍観しているにすぎないのかもしれないと、少し苦しい気持ちになった。だがこの気づきも、もしかしたら支援をするうえで重要なことなのかもしれない、と思うようになった。私達が世界的に裕福であるという自覚を持ったうえで、それでも彼らのことを知ろうという姿勢が大事なのかもしれない。

「知る」ということは簡単なことではない。例えば住んでいる地域によって、家族によって、それぞれの抱えている問題は違う。都会には都会の問題があり、農村部には農村部の問題があるのだ。それら全てを私達が理解することはきっとできない。それでも彼らを知ろうと努力することが必要なのだと思う。

私は、今回訪問させていただいたセンターの一つであるコミュニティー・パートナーシップ・フォー・インテグレイテッド・チャイルド・デベロップメント・センターがあるギマラス島を通して考えた「農村部での貧困」について記していきたいと思う。

三、ギマラスの農村型貧困

ギマラス島では支援チャイルドの家を訪問する際、大きな門を通った。これはある地主が広大な土地を所有していて、チャイルド達の家と地主小作関係にあるということを意味している。圧倒的な貧富の差が同じ地域内で存在しているのだ。これには理由がある。もともと農村部では地域のつながりが強かった。よって冠婚葬祭や病気でお金が足りなくなった時は地主に借りることになる。しかしながら地元の人々は字が読めない人が多かったため、取引の際にとてつもなく高い利子をかけられてしまい、返金することができないので、土地を買いたたかれてしまう。そのため自分自身を担保に入れて働き、労働で支払うので、収入の四分の三程度が地主分としてとられてしまう。残された収入では食べていくのに精一杯なため、誰かが急に病気にかかったりして急にお金が必要になった時には、また地主にお金を借りるしかない。こうして雪だるま式に借金が膨らんでいき、その借金は子どもたちの代へと受け継がれていく。つまり、子どもたちは生まれながらにして借金を背負うことになってしまう。このようにして貧富の差が広がっていってしまうのだ。

ただし、農村部では都市と違って、地主以外の人々の間にはあまり差がない。ギマラス島では、現金収入になりそうなものは、漁で得た魚や牛、豚、ヤギ、鶏などの家畜しかなく、皆が同じようなものをつくっている。そのためマーケットではあまり良い値段で売れない。海をわたって都市で売ると高値で売ることが出来るが、彼らは運送手段を持っていないため、本土にある業者などが運送を行い、売り上げのほとんどを持って行ってしまう。このために結局島にお金は残らず、外に資金が流出する絶対的貧困に陥ってしまうのだ。この地域で支援を受けているチャイルド達の家の平均月収は十人家族で約二千ペソ、日本で言う四千円ほどにあたる。一体二千ペソで何が買えるというのだろう。彼らの稼ぎでは生活用品なども少しずつしか買えないため、サリサリストアという何でも屋で、たとえ長期的にみると少し割高になったとしても、小分けしてある商品を買うしかないのである。そして驚いたことに、私達が一日目に行ったレストランで食べた食事は十人で約三千五百ペソ、つまり彼らの月収の一ヶ月半もの値段だったのだ。普段何も考えずにお金を使っていた自分が、とてつもなく申し訳なく感じた。

このような経済状況なので、もちろん家の設備も整ってはいない。家の床の土はむきだしだし、電気も水道も通っていない。自分たちで建てた狭い小屋にひしめきあって暮らしている。正直、自分がここにすんだら・・・とは、とても考えられないような環境だった。

支援をする際には「子どもに十分な教育を受けさせる」ということは、とても重要になってくる。しかし、このような田舎の地域ではむやみに教育水準だけをあげてしまうと、結局その島には高度な教育をいかせる職業があまりないので、職を求めてマニラへ行ってしまう子が多い。こうした人口流出が続くと、過疎になってしまう可能性もあるのである。

こうした状況に陥るのを防ぐためには、この島全体がもっと経済的に成長する必要がある。その一つの方法として観光開発はどうか、という話が出た。

四、観光開発の功罪

観光開発は外貨獲得のための非常に有益な手段の一つである。観光開発を進めることで現地の雇用も生みだし、経済成長に貢献することは間違いない。しかしながら必ずしも現地の人々のためになるものとは限らないのだ。基礎資本がもともとないため大規模な資本が投下されると勝つことができないからである。観光開発が進むと海外から大型ホテルや大型モールが進出してくる。するともともとあった地元の商店は、資本力のあるホテルやモールに客をとられてつぶれてしまうため、職を失った彼らは結局そのホテルやモールで働くことになる。また中小商店がつぶれてしまっているため、地元の人々は大型モールで買い物せざるを得なくなる。よってホテルやモールは儲かるが、利益がその地域におちることはない。つまり急激に、そして大量に外資が入ると、外国にお金を吸い取られてしまうことになるのだ。また観光開発をすることによる環境汚染の問題や治安維持に対する悪影響も懸念されている。経済的に発展したいと思って観光開発をしても、結果として現地の人々がより苦しい生活を強いられる可能性が少なくないのだ。

五、本当の支援とは

私は今回の旅で、支援や貧困に対する答えを見つけようと意気込んでいた。しかしながら、むやみな教育水準の上昇も観光開発も悪になりえる。現地の事情をしらないNGOは貧困の根本的な解決にはつながらないし、ノーベル平和賞をとったことで一時有名にもなったマイクロファイナンスは人々を小規模ローン地獄に落とし込めてしまうという危険性をもっている。

学べば学ぶほどわからなくなってしまった。何もできないちっぽけな自分に嫌気がさした。それでも彼らのために何かがしたい、いや、しなければならないと考えたときに、大々的に、そして急激に発展するということは望めないが、まずはその地域のことを知り、地域に寄り添うことが大事なのだと思うようになった。その地域のことを一番よく知っているのは現地の人々である。だから「私達が彼らに何かをやってあげる」のではなく、「彼らが必要としていることを彼ら自身でやり遂げることができるよう支える」必要があるのではないか。

また私は、ギマラス島の美しい自然をマニラや東京のような大都市として開発していくことが本当の支援だとは思わない。私達の資本主義で固められた価値観に、彼らの幸せをあてはめるべきではないと思う。現地の人々の価値観を大切にし、それに近づけるような支援をするべきだ。そのためにチャイルドファンドジャパンでは「現地にないものは持ち込まない」ということをモットーに、その地域の人々が自分たちで生活していけるような支援を行っている。その地域の村ぐるみ感を生かしながら、現地の人々が身内だけでお金をやりくりする住民ローンなどをつくり、コミュニティーの結びつきをより強いものにしていっているのである。

フィリピン五日目の夜のミーティングである先生が、
「支援とは幼い子供を自転車に乗せる手伝いのようなものだ。まずは親が補助輪をつけてひいてくれる。そしてやがて補助輪を外していき、親の支えもいらなくなり、いつの間にか一人で乗れるようになっている。親は子供に『自転車をこぎたい』という気持ちを持ち続けさせたまま手助けをしなければならない。」
というお話をしてくださった。そうなのだ。支援とはただの補助にすぎない。私達が何かをやってあげるのではなく、困っている仲間がいて、彼らのことを考えながら一緒に歩んでいくことこそが重要なのだと思うようになった。

フィリピンに行く前の私に、「彼らが貧しくてかわいそうだから何かをしてあげたい。」という気持ちがあったことは否めない。しかしながら現地で出会った子どもたちは明るく、きらきらと目を輝かせていて、私達が普段「貧困」ときいて思い浮かべるようなイメージとは対極の存在だった。「貧しい=不幸せ」という考えも、先進国に住む私達の固定概念にすぎなかったのだ。

勉強ができること、一日三食食べられること、家族がいること。私達にとっては限りなくゼロに近い大前提であるこれらのことに、フィリピンの人々は目を向け、感謝して毎日をすごしているから、あれほど幸せそうに見えたのかもしれない。彼らは、私達が発展するにつれ忘れかけてしまっている、「目に見えないもの」「周りとのつながり」を大事にしているような気がした。また私達は、美味しいものを食べたり、友人とわかりあえた時などに幸せを感じる。同じ人間である以上、その幸せには「貧しさ」も「豊かさ」も関係ない。性別も国籍も年齢も関係ない。今回のフィリピンの旅で共に遊び、共に食事をし、共に語り合う中で、この「普遍的な幸せ」を彼らとシェアできたことをとても嬉しく思っている。

ところで皆さんは、発展途上国が途上国であり続ける原因を考えたことがあるだろうか。私はフィリピンを訪問する前の事前学習で貧困問題について調べていた時、あるサイトにいきあたった。そこでは「なぜ途上国が自立できないのか」という問いに対し、「彼らが努力していないからにすぎません。努力などしていない彼らに支援なんてする必要はありません。」という答えがベストアンサーとしてのっていた。きっと皆さんの中にも、貧困問題なんて自分とは関係ない、遠い国の出来事だと考えている人もいるのだろう。彼らの努力が足りないだけだと感じている人も多いのかもしれない。しかしながら「貧困」とはその国だけで解決できるような問題ではないのだ。

発展途上国を貧しくさせてしまっている理由の一つとして、現在の経済の仕組みがあげられる。現在の世界経済では工業化された先進国が多額の利益を儲け、その他の工業化が遅れた地域が不利になる構造になってしまっている。先進国の搾取によって発展がとざされている、ともいえるのである。もちろん我が国日本も例外ではない。私達は気付かないうちに貧困の片棒を担いでしまっているのだ。貧困を作り上げてしまっている一員として、私達には彼らのために何かをする義務がある。同じ人間として助けあうべきなのだ。困っている隣人がいたら手を貸すのは当たり前ではないか。今回フィリピンに行って、ようやくそのことに気付けた気がする。

この旅で感じたこと、得たことは、きっと私が大学で学びを続けていく原動力となるに違いない。私はまだまだスタート地点に立ったばかりだ。この旅をここで終わらせず、いつか何かを変えたい。そのためにも、これからも貧困問題について考え続けたい、フィリピンと関わり続けたいと強く思っている。

(61期 参加生徒)

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