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イースター礼拝「傷のある復活」

イースター礼拝「傷のある復活」

山元 克之先生(聖書科)2015年4月10日

今日読んでいただきましたヨハネによる福音書には「ディディモと呼ばれるトマス」という人が登場しています。この人は主イエスに従った12人の弟子の一人です。「ディディモ」という言葉は、「双子」という意味の言葉ですから、おそらく、トマスという人は双子だったのでしょう。ただ、その兄弟の名前は聖書のどこを探しても出てきません。

死人が復活したなんて言うのはありえないと現代を生きる私たちは考えます。しかしそれは科学が発達した高度な時代を生きているから信じられないというのではなくて、今から2000年前の人の常識から考えてもありえないことだったのです。ましてや、トマスというのは主イエスに従った弟子です。主イエスの弟子のトマスでさえ、そんなことは信じられないというのです。

先ほど、このトマスは「ディディモ」「双子」と呼ばれていたと言いました。そして、その双子の兄弟が誰なのかを聖書は伝えていないといいました。ある人が書いた文章でこのような内容のものがあります。「私たちは、聖書の中にトマスの双子の兄弟を探す必要はない。双子というのは見た目もさることながら、性格もよく似るものである。そのような意味で、トマスの双子の兄弟は、死んだ人が復活したなんて信じられないという、私たち、一人一人なのだ」

疑うトマスの疑いをはるかに超えて、復活の主イエス・キリストはトマスと出会われます。そこでトマスは信仰の告白をはっきりと語ります。「私の主、私の神よ。」私達も疑って良い。私達人間の疑いごときで右往左往する神ではあられません。信じられないそのことを徹底的に疑うそのことの中で、その疑いをはるかに超えて復活の主は私たち一人一人と出会って下さるお方だと聖書は伝えています。

私は東北の地方で牧師として仕えてきました。その中で東日本大震災を経験し、本当に小さな小さなことしかできていませんが、被災地での働きを与えられました。良く聞かれることがあります。今の被災地の様子はどのようですか。これは大変難しい質問だと思っています。それは、「被災地」は復興に向けて瓦礫はなくなり、土地は整備され、復興住宅が建っています。そのような意味で復興しているとも言えます。しかし、「被災地」という「地」「場所」に関しては進度の差はあれ復興に向かってはいるけれど、「被災者」という「者」「人」に関しては誰もがつらい経験を抱えたまま、何とか普段の生活を送っているという感じがします。

十字架に張付けられた主イエスは手と足に釘を打たれて、張付けにされたと言われます。トマスが「釘跡を見なければ信じない」と言っているのは、そのことです。復活と聞くと、綺麗さっぱり元通りと思うかもしれません。ゲームなどをやっていると、コンテニューをしたら、何もなかったように綺麗さっぱり元通りになっています。しかし、聖書の伝えるキリストの復活とはそのようなものではない。傷がある。跡がある。手には穴が開いていて、脇腹には槍で刺されたあとが残っている。それでも、そこに大きな喜びがある。

この主イエスのご復活の姿に、4年被災地で過ごすことができたものとして考えさせられることがあります。被災地は綺麗さっぱり元通りになります。いや前よりも立派なものが立つこともある。しかし人は一度、傷ついたらその傷は消えない。心の傷も同じです。私たちの人生にもある傷、痛みです。だれもが、その人生の歩みの中で消えることのない痛みを経験し、その傷を抱えたまま生きていきます。しかし聖書の伝える主イエスの復活の出来事は、その傷が消えなくても、傷を抱えたままでも、大丈夫だ、喜びがそこにはあるということを伝えています。

キリストの復活は傷を抱えたままの復活でした。それでも、いやそれだからこそ、トマスは喜びに満ちて、信仰の告白に至った。トマスも他の主イエスの弟子たちも一生消すことのできない心の傷を持っていました。それは、最後の最後で全ての弟子たちが主イエスを裏切ってしまったという傷です。その傷を消すことはできません。でもその傷を抱えたまま、傷のある主イエスの復活と出会った時、彼らは喜びに包まれたのです。

皆さんの中にも、今このとき、消えない痛みを抱えている人がいるかもしれません。聖書は語ります。大丈夫だと。その痛みは消えないかもしれない。でも復活の主イエスの与えて下さる希望はその痛みの向こう側にある希望だと。イースターおめでとうございます。私達一人一人もその復活の喜びに招かれています。

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