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奨励「心を燃やす」

教育/キリスト教教育/礼拝の紹介

「心を燃やす」

国語科教諭 2015年4月20日

ルカ福音書24章 28~34節

一年生は入学してから2週間が過ぎようとしている。2年生も新しいクラスに慣れただろうか。3年生は最高学年としての自覚がゆるぎないものとなってきただろうか。

私はこの学校に就職してから29年目を迎えた。クリスチャンホームに生まれ、昔から教会に通っていた私だが、通っていた学校は幼稚園から大学院を出るまで、およそキリスト教とは縁のない学校であった。

通っていた教会の方は、私に対して親切に接して下さった。しかし皆大人で、大人扱いされる教会にいる…という感覚で、それが普通だった。そのため通っていた学校の人間関係がかなりドライであったのも、あまり違和感なく受け止めていた。小学校時代は、クリスチャンということで祈ったりすると友人にからかわれ、悔しく、嫌だと感じることもあったが、自分がある意味マイノリティであることを自覚し、大して悲観もせず、しかし自身の信仰心は面には出さずにいた。

大学院に通っていた間は、やはりキリスト教とは縁もゆかりもない幾つかの高校で非常勤講師をさせて頂いていた。それぞれに特色のある学校であり、それなりに良い経験をさせて頂いたと感謝しているが、何か一つ物足りないものを感じていたことも確かで、本格的に就職するならぜひ、キリスト教主義の学校で…と考えていた。だから、その思いが叶った時はとても嬉しかった。

就職して初めて教員室に足を踏み入れた時のことは今でも忘れない。真っ先に「よくいらっしゃいました」と笑顔で迎えて下さったのは、先年お亡くなりになった英語科であり、不安な気持ちで迎えた入学式で何気なく私の隣に座って下さって、なにくれとなく面倒を見て下さったのは現部長の西川先生であった。お二人がクリスチャンであるというのは後で知ったことだが、年配の厳しく近寄りがたい先生もいらしたけれど、おおむね気さくで親切な先生方ばかりで、ずいぶん心が和まされたこともまた覚えている。

しかし特筆すべきは生徒の教員に対する対応だった。一般的にややドライで距離を置いた教師と生徒の関係に慣れていた私は、まるで家族でもあるかのように接してくる生徒諸君の反応に驚いた。それは馴れ馴れしさと紙一重でもあり、先生にうまく敬語が使えないといった現象面もさることながら、当時はパソコンなどなく、従ってカウンターもなかったので試験期間以外は自由に教員の席まで来て話をしていく…というのが当たり前だった教員と生徒の「近さ」に衝撃を受けたのである。今までにそんな学校は無かった。

また、今私がここでお話をしている「礼拝」も驚きだった。今まで「朝礼」や「講話」というものはあったが、それは校長先生が生徒に一方的に人生訓や道徳などを語る場であった。人としての生き方や世界の平和について、色々な先生が皆さんに語りかける機会がこのように設けられている…という事など今までに経験がなかったので、とても新鮮だった。

しかし、私が担任を持ってしばらくしたある日、事件は起こった。あるときいつものように礼拝で出席を取っていた時、確か二時間目までいたはずのY君がいないことに気付いたのである。具合が悪いのか…と心配し保健室に連絡したが、いない。お手洗いも一応見たがいない。急に気分が悪くなり、黙って帰宅したのか…と思っていたところ、校舎の隅でうずくまって座っていたY君は、見回りをしていた日直の学年主任の先生に「発見」された。

どうしたのか、と聞く私にY君は「別に」と答えた。カッとなった私は「じゃあなんで礼拝に出なかったんだ」と詰め寄ると、彼は「だって、入学してから毎日お話を聞いても、僕には神様がいるなんて思えないんですよ。礼拝に出る意味が分からなくなったんです」と答えた。なおも言いつのろうとした私を手で制したその時の学年主任の先生は、しかし静かに彼にこう聞いた。「君はこの学校の先生も生徒も、みんな嫌いなの?」「いえ…授業や仲間は好きです。なんていうか、信頼できるっていうか」「その『信頼できる』雰囲気、ってどっから来てるんだろうね」Y君「それは…よく分からないけど、みんな暖かくって」「そういう暖かさって、この学校が110年(当時)、培ってきたものなんだよね…しかもそれを生み出してる底にあるものってなんだと思う?」Y君「…分かりません」「礼拝だよ。キリスト教の教えを通して醸し出される、暖かさがみんなを繋いでいるんだ。それがこの学校の礼拝なんだよ」Y君は何かを深く考えるようにしていたが、やがて「そうですか…僕にそれが上手く分かるようになるかはわかりませんが、今後は無断で礼拝を休むことはしません」と答えた。その後、彼は卒業までその言葉通りにした。そして分かったか分からないかは話してくれなかったが、「先生、ありがとう」という言葉を残して高等部を巣立って行った。

私は深い感銘を受けた。なぜならその学年主任の先生は、クリスチャンではなかったからである。でも、きちんとこの学校が拠って立つもの、神様がともにいらして下さることを理解して、生徒を叱りつけることなく、深く諭して下さったのである。

神様は目に見えない。イエス様が人の子としてお生まれになり、私たちのために十字架にかかって下さったことは「歴史的事実」だが、今日お読みした聖書にあるように、死にうち勝たれて心も体も「復活」されたのかどうかは、「事実」といってもなかなか信じることは難しいことだ。しかし、神様が近くにいて下さるという「ぬくもり」はいつも感じるのである。私が悲しい時、困っているとき、嬉しい時…いつもイエス様は「聖書」の教えを通して私と共にいて下さることを確信する。それは、この学校で皆さんが感じている、あるいはこれから感じることになる「心暖まる」体験なのだと思う。

どうか礼拝のみならずあらゆる機会を通してその雰囲気を感じ取り、青山学院の全ての生活から「神様の愛」を体感してほしいと思う。

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