TOP

「論理と情緒-論理を超えた先にあるものを見据えて」 数学科教諭

教育/キリスト教教育/礼拝の紹介

「論理と情緒-論理を超えた先にあるものを見据えて」

数学科教諭 2018年6月1日

イザヤ書55章8節~9節

新年度になり早くも2か月余りが過ぎました。今日から6月に入り今年も折り返し地点に差し掛かりました。私自身の生活を振り返ってみると本当に毎日慌ただしく、忙しく過ごしているなと感じます。「慌ただしい」という漢字は「りっしんべん」に「荒れる」と書きます。また、「忙しい」という漢字は「りっしんべん」に「亡くす」と書きます。「りっしんべん」は心を表していますから、慌ただしさや忙しさを感じているということは心が荒れていたり、心を亡くしていたりするわけです。あまり望ましい状態とは言えません。もう少し心に余裕を持たなければと思わされる今日この頃です。

さて、みなさんは岡潔という数学者をご存知でしょうか。今年の2月に日本テレビ系列で『天才を育てた女房-世界が認めた数学者と妻の愛』という岡潔の奥様を主人公にしたドラマが放映されたり、予備校講師の林修さんが「部屋は散らかっているが本人は何がどこにあるかがわかっている人のことを「岡潔型人間」と分類したり、ここ最近テレビでも取り上げられる機会が何回かあったので名前は聞いたことがあるという人もいることでしょう。

岡潔の数学的業績をここで話すことは相応しくありませんし、私にはその能力もありませんので割愛せざるを得ませんが、簡単にいうと当時まだまだ発展途上で未解決問題が数多く残されていた「多変数複素関数論」という分野を一人で開拓した数学者です。これは本当にすごいとしか言いようがありません。その強烈な異彩を放つ業績から、ヨーロッパの数学者たちは当初それがたった一人の数学者によるものだとは信じられず「岡潔」という数学者集団によるペンネームであろうと思われていたそうです。

数学者として後世に残る素晴らしい業績を残した岡ですが、教育者や随筆家としても名が知られた人でした。いろいろな著作を残しており、その中には現在文庫本でも読めるものもあります。私が岡の言葉で忘れられないものがあります。それは「数学の本質は『計算』や『論理』ではなく、情緒の働きだ」というものです。その言葉に出会うまで私は数学の本質は『計算』や『論理』にあると思っていたので大変大きな衝撃を受けました。ちなみに「情緒」とは簡単に言えば「感情」とか「感受性」のことです。例えば道端に咲いている花を見て「ああきれいだな」と思う心と言ってもいいでしょうか。数学を研究するときにはそのような気持ちを持つことが大切であるというのです。

世界的な数学者がこのようなことをいうのですからこの言葉は数学の本質の一端を表しているのでしょう。感情とは縁遠いと思われている自然科学の分野ですが、特に宇宙論や量子論を突き詰めた物理学者の約7割はその先に「神の存在、大いなる意思の存在」を感じるそうです。私は神様は最高の数学者であってこの世界を創造されたときに私たちが驚くような素晴らしく美しい公式を数多く散りばめられたのだろうと思っています。数学者はよく「この式は美しい」とか「この理論は美しい」といいますが、きっとその背後に「神の存在、大いなる意思の存在」を感じているのではないかと思います。実は私が数学を学んでいこうと考えたのもこのことに関係しているのですがこの話はまた機会があったら話したいと思います。

私はこの岡の言葉に衝撃を受けると同時にある聖書の御言葉を思い出しました。それが本日お読みした箇所です。特に9節の途中「わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」において、「わたしの思い」を「情緒」、「あなたたちの思い」を「計算」や「論理」に置き換えればまさに岡の言葉と符合するのではないでしょうか。

僭越ながら岡の言葉を今日の御言葉に照らし合わせつつ私なりに意訳してみると「人間の思いばかりにとらわれていると窮屈で本質的な部分を見失うよ。だからときには人間の思いをはるかに超えた神様の思いは何なんだろうって考えることも大切だよ」となります。

では神様の思いは一体どこにあるのでしょうか。そのことを考えるときに参考になる聖書個所が新約聖書コリントの信徒への手紙二4章18節(新約聖書330ページ)にあります。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

どうやら地位や名誉、財産といった目に見えるものの中には神様の思いはないようです。サン=テグジュペリが小説『星の王子様』の中で「たいせつなものは目には見えない」と言っていますがまさにその通りなのでしょう。愛、正義、平和、美しさ、善さなど目に見えないものの中に神様の思いはあるのです。
人間の思いと神様の思いがいかに異なっているかをよく表している詩があります。ニューヨークにあるリハビリテーション研究所の壁に掛けられているある患者の方が書いたと言われている詩です。

大きなことをなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
より偉大なことができるように健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
 人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった
 求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬものであるにもかかわらず
 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ

この詩は、弱さゆえに慎み深く従順であることの大切さを知り、病弱であるがゆえに善を行うことの大切さを知り、貧困であるがゆえに懸命に生きることの大切さを知ることができるのだということを伝えています。この患者に対して神様は非常に厳しい試練を与えられましたが、与えられた試練を通して本当の幸せとは何かをこの患者に悟ってほしかったのではないかと思うのです。神様の思いは人間の常識をはるかに超えています。人間が考える計算や論理では決して理解できないこと、それが神様の思いです。

目に見える結果がすぐにほしいと思うのが人間の思いです。しかしそればかりにとらわれていては本当に大切なことを見過ごしてしまいます。私は今日の話の冒頭で日々忙しく過ごしていると言いましたが、忙しさや慌ただしさは人間的な思いの中で右往左往している人間の姿なのでしょう。そのような忙しい生活に余裕を見出すことはその人間的な思いから解放されて神様の思いに触れることになるのだと思います。余裕のある生活、それは神様の思いに触れることができる生活なのかもしれません。そして余裕のある所には愛も生まれてきます。「愛は寛容である」と聖書は語っています。寛容とは、少々難しい言葉ですが平たく言えば心が広いことです。ゆとりがあることです。ゆとりのないところに愛は生まれにくい。ゆとりこそは愛が豊かに育つための土壌であると言ってよいでしょう。

岡潔が計算や論理を越えて情緒の世界を大切にすることで数学の本質を見たように、私たちも人間の思いばかりを追い求めるのではなくそれを超えた神様の思いを考えることで人生にとって本質的なことが見えてくるのではないでしょうか。

error: Content is protected